じゃあ、「金野」ってどこにあるんだと。まぁ、これを探していくことになるんですね、最終的には。はい、それでやっていきました。それでですね、大事なことが仁徳紀にはですね、もう一つ、実は(*省略)「難波高津宮」というのが出てきます。これは仁徳天皇、これは通説ではみなさんご存知の通り『日本書紀』には「大鷦鷯天皇」、彼が仁徳さんってことになってるんですよ。
だから、題名に「真実の仁徳天皇」って書いてあるのは、もう前にお話ししましたように、これは「菟道稚郎子」が即位して「宇治天皇」になられた、「宇治天皇」さんこそが「本物の仁徳」さんですよと。「大鷦鷯」さんは、逆に「暴虐の天皇」さんだよって、もう2012年にもうお知らせしたんです。今日はそれを細かく追いかけてるだけです。
その大鷦鷯天皇は「難波高津宮に居しました」とはっきり書いてあるわけです。その「難波高津宮」どこにあるんだということで、これはですね、この「真実の仁徳天皇」発表する前に、これも偶然に筑豊で見つけてしまったわけなんですね。それは仁徳天皇紀に書いてありますように、「菟道宮」とその「難波」とを行き来した「海人」、漁夫ですね、海人、(*省略)「難波高津宮」ですね。
この仁徳紀の伝承で、鮮魚をですね、まず菟道宮に差しあげたと。そしたら、菟道稚郎子が「いや、私の所じゃなくて、お兄さんの大鷦鷯さんの所持って行きなさい」。これで彼、海人が難波宮に鮮魚を運びますね。すると今度は大鷦鷯天皇が、ああ、まだ天皇じゃないですね、大鷦鷯皇子がですね、大鷦鷯皇子が今度は「菟道宮に持って行きなさい」。これで海人がかわいそうなことに右往左往してる内に魚が腐ってしまったという、そういう故事が書いてあるわけです。
大事なことはこの話が本物であろうと偽物であろうと、大鷦鷯の宮とそれから菟道稚郎子の菟道宮とは「そう遠くない」ってことです。ただし、往復しちゃうと魚が腐っちゃうんです。行き来してる内にね。すると片道やっぱり20㎞以内じゃないと、こら間に合わんだろうと。「あま」って「海人」って書いてあるでしょ?これだから近畿に持って行ったらダメでしょう?
近畿の難波宮から、あの京都の宇治までどれくらいかかると思ってます、みなさん?大阪の難波から、京都の宇治まで?ほら、元々あれ「片道」で、「片道歩いていく途中で腐る」でしょうが?これは「何度か行き来する内に腐った」んです。だからその、何度か行き来する内に腐るということは、少なくとも大阪の難波と京都の宇治の間の距離じゃないんです。
もっと「短い」んです。ただ、往復すると冷凍技術がありませんから腐っちゃうんですよね。そういう場所にないかということで、じゃあってことで「難波高津宮」から逆に「菟道宮」探そうと。そういう発想でこれやっただけなんですね。そうした時にですね、「難波高津宮」、本当にこれもね、偶然でしてね。見つけてしまったんですよ。それはですね、次の写真ですね。(*省略)
かつて、「椿市廃寺跡」何回も何度も旅してたんですがね。ある時、(*不明)さんとか他の色んな人たちと一緒に出かけて行きまして、そこにですね、そこの地図の中に「幸ノ山」というのが(省略*)行橋市の地図、「入覚」というのが見えますか?その入覚という所の北の所に「五社八幡神社」というのがございますね。ここにありがたいことに行き着いちゃったわけです。
この地図ですね。これが「幸ノ山」です。ここ、「入覚」ですね。これが「五社八幡神社」です。先程みなさんにお教えした通り、行橋からの海というのはここ辺りまで来てたらしいんですね。これはそこの古川さんに教わったんですよ。これ、どん突きが池になってるだけなんです。だから、「難波高津宮」というのは本当にここまで海だったんです。