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2017年5月30日

#005 「続・真実の仁徳天皇」福永晋三 [30分~35分]


これは神功皇后紀を読む会で、これもまた有名な『万葉集』の29番歌を中心としましてね、そこに出てる先程の「御所ヶ谷神籠石」とも関係するんですが、(*省略)「宇治の京」はどこか?という時に、そこに<近江の荒れたる都を過ぐる時、柿本朝臣人麿作る歌>というのがございますね。


<玉手次(たまだすき)畝火の山の橿原の日知の宮ゆ阿礼座(あれま)しし神の尽(ことごと) (つが)の木の弥(いや)継ぎ嗣ぎに天の下知らしめしける天満つ倭(あるいは虚見つ倭)を置き青丹よし平山越えて何方を思ほしけめか天離る夷には有れど石走る淡海の国~>ほら、ここに「石走る淡海」がありますね。


<~の国の楽浪の大津の宮に天の下知らしめしけむ天皇(すめろき)の神の御言の大宮は此処と聞けども大殿は此処と言へども霞立ち春日か霧()れる夏草か繁くなりぬる百磯城(ももしき)の大宮処見れば淋しも>これ有名な歌なんです。その「百磯城の大宮処」こそが、先程あげた「御所ヶ谷神籠石」であろうと。これ字がピッタリ当たりますでしょ?「たくさんの石の城」なんです。


奈良県、ないんです。福岡県にわんさかあるんです。神籠石、遺跡が。先程お見せした通り。この辺りで詠まれた歌なんじゃないのかと。これに関連する歌として、これは古田さんも言ってたんですけども、ここでこの入水自殺を、忍熊王という人物がやってのけますね。神功軍に追い詰められて、
それで手足切り落とされて惨たらしく殺されるよりは、もう自殺してしまえということで、鳰鳥(にほどり)のように淡海に飛び込むわけであります。


淡海に飛び込むんですよ?入水自殺するんですね。それを武内宿禰が執念深くその死体を探しぬくわけであります。それが『日本書紀』に書いてありますよね。その『日本書紀』に詠まれた神功皇后が仲哀の正統の跡継ぎである「忍熊王」を完全に滅ぼして、その死体があがるまでを見届けたという事件がある。その時のことを柿本人麻呂は詠んだんです。


その場所こそが、さっきのそこに出てる「御所ヶ谷神籠石」。私と同じような位置に立って、この石垣を見ながらあの歌を作ったと。「見れば淋しも」、何度も言ってきました。「見れば」というのは「確実条件」。だから、柿本人麻呂は5世紀のある時点で必ずこの廃墟の跡を「見て」詠んでるんです。 忍熊王が滅んだのはせいぜい100年前なんです。その程度なんです。


だから、私は柿本人麻呂というのは「5世紀の宮廷歌人」だよって言った。もうこれも通説と真っ向から対立します。違いますよと。神功皇后が忍熊王を滅ぼした後に詠んだ歌、しかもその壊された御所ヶ谷神籠石のその(*不明)の跡を見て詠んだ歌なんですよってことを言ったわけなんですね。だから、その反歌がよく知られてる通りですね、<楽浪の思賀の辛碕幸くあれど大宮人の船待ちかねつ>(30)


「入水自殺」したわけでしょ?だから、大宮人を待ってもダメだよという歌ですよね。<ささなみの 比良の大わだよどむとも昔の人に会はむと思へや> (31)昔の人に会うと思うだろうか、いや、思わないよと。それは無理だと。そうやって死んだ人とは二度と会えない。そういう歌が残されてるわけですね。それに関連する歌として、<淡海の海夕浪千鳥汝が鳴けば情(こころ)もしのに古念ほゆ>(266)というのが4ページ辺りに書いてあります。


それともう一つ大事なのが(*省略)そこに武内宿禰が詠んだ<淡海の海齋田の濟(わたり)に潜く鳥田上過ぎて菟道に捕へつ>という、これが「菟道」(うじ)です。これがまた「宇治」です。だからこれ「宇治」ばっかり出てきますよね?次の歌もこれ人麻呂の有名な歌で、<物乃部(もののふ)の八十氏河(やそうぢがは)の網代木にいさよふ浪の去辺(ゆくへ)知らずも>(264)ということで、忍熊王の運命を悲しんだという歌ということになっております。