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2017年5月29日

#005 「続・真実の仁徳天皇」福永晋三 [25分~30分]

本当に持統天皇なのかな?というのがまず一点。それから『万葉集』2番歌と15番歌において題名にあります通り、香具山に登って国見をなすった天皇さん、「誰」だろう?ということをまじめに考えたんですね。その中でたまたま仁徳紀を読んでいたら、まずそこに一、「宇治の京」って言葉があります。(*省略)これ仁徳天皇紀です。大山守皇子を那羅山に葬った後にですね、<既にして(太子菟道稚郎子)宮室を菟道に興てて居します。>というこの一句だけです。


これが『日本書紀』を細かく読んでいきますと、「宮室を興てて居します。」ということは、これは「天皇即位」を意味するんです。『日本書紀』の9割以上そうなんです。「宮室を興てて居します。」これは各天皇紀に全部書いてあります。「何処其処に宮室を興てて居します。」、「何とかの宮を興てて居します。~何とかの宮を興てて居します。」これみんな「即位」なんです。



今まで我々は、この一句に誰もこだわってこなかったんですが、太子菟道稚郎子さんは「即位」されたんであります。つまり「天皇」になられた、なんてことをですね、神功紀を読む会で話しておりますと、多元の会の富永っち言う(*不明)さんが、「うん…宇治天皇は出てくる」と。『播磨国風土記』にあるんです。たった一箇所。「宇治天皇」って出てくるんです。


それは誰がどう考えても、それは岩波の古典体系本引いてもわかりますが、それは「菟道稚郎子」指すに決まってるという誰でも(*不明)すね。でもしかし即位されて、やっぱ「宇治天皇」と呼ばれてるんです、諡として。これがまず一つです。そして、我々が『万葉集』でぶち当たったのがですね、(*省略)ここに「宇治天皇のみ世」という、そのそこに『播磨国風土記』の一節が書いてあります。


上筥岡から始まって、それが<~即ち朸田(あふこだ) と曰ふ。>というまで、原漢文と書いてありますね。この中には傍線の所、「宇治天皇のみ世」って線引いてございますでしょ?もう、そこだけ覚えといてください。『播磨国風土記』に「宇治天皇」という呼称がしっかりと残されていました。全古典中、たった「一箇所」です。問題先程の「宮室」ですね、「宮」ですね。


この宮を興てたというのが、これまた『万葉集』に、『万葉集』に一首だけあるんですよ。(*省略)富永さんがその「宇治の京」というのを私が提案したら、(*不明)「宇治天皇」があるということがわかって、ついに今度は「宇治の京」というのが実はこれも『万葉集』にたった「一首」だけあるんですね。7番歌なんです。<額田王歌 未詳>額田王の歌とありましてね、未だ詳らかならず。


通常はこれ「あきののの」と読ませますね。「金野」と書いてあるんですが。<秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の京の仮廬し思ほゆ>という歌があります。[秋の野のみ草を刈って、そして屋根に葺き、宿った、宇治の京の仮廬が懐かしく思い出される]というこれだけの歌だったんです。大事なのはそこの傍線の「兎道乃宮子(宇治の京)」です。だから、この「宇治の京」が当然、『万葉集』の注釈にも 菟道稚郎子のその「宮室を興てて居します。」と関連して、これは菟道稚郎子の宮殿だと。


そう書いてあるんです。しかしこれで、「宇治天皇」と「宇治の京」が出ましたでしょ?それぞれ『万葉集』と『播磨国風土記』に一個ずつしかないんですが。宇治天皇が即位してた。菟道稚郎子は即位してて宇治天皇になってた。そして「宇治の京」というのが、ちゃんと『万葉集』の7番歌に詠われてる。これはじゃあ一体何を意味するんだと。


それぞれにたった一箇所しか出てこない「宇治天皇」と「宇治の京」は一体何を意味するのかと。これを、神功皇后紀を読む会で私が中心になって一生懸命に読み解いていったわけなんでございますね。そして、そうした時に私は既に神功紀を読む会の中で、もう既に「宇治川」、「宇治の土地」というのを実はもう出してたんです。