『古今和歌集』の仮名序はこれの後半に出てきますけどもね、その中には平城の天子が侍臣を集めて、曲水の宴を開きましてね、そこで倭歌を奉らせたという故事がありますし、実際に『万葉集』を編集したということが書いてあるわけなんです。だから、『万葉集』こそが旧・倭国、九州にあった倭国の天子が、倭国の天子が侍臣に命じて編集させた「勅撰和歌集」だったと。
だから、私は『古今和歌集』の叙述と全く矛盾しないことをこの国で初めて言ったわけです。ただ、出来たのは「北九州」ですよと。編集の場所は「北九州」ですよと言ってるだけなんです。だから、それが倭歌が解き明かす古代史というシリーズのもとになったわけですね。さぁ、その考え方で、考え方で、私はその「天香山」にずっとこだわり続けてきました。
その天香山が「香春岳」ですね。田川郡の香春岳に今あるんだよということを言ってきたわけなんでございますね。これは今度は崇神紀になりますかね、崇神紀の中に実は「御所ヶ谷神籠石」を造る時の労働歌がちゃんとあります。例の箸墓古墳を造る時の歌ということになっております。これは通説の学者さんたちも言ってるんですが、<~手遞傳に越さば~>という歌があるんですけどね。
非常に大きな石を山の尾根に持ち上げるという歌なんです。その重くて大きな石を手伝いで渡すことが出来たらなぁ…という。私はこれを初めて「反実仮想の歌」だって言ったんです。現実はそうじゃないんです。だけどやっぱり重いから、これが手渡し出来たらいいのになぁという、そういう歌があるんですね。それで、向こうに行きますとね、あの逢坂山から箸墓までは「下る」んですよ。
だから、どんな大きな石だって、坂を降りていくのが楽なんですよ。歌はどう考えても、重い石を「上」にあげるんです。苦しいんです。重労働なんです。それが崇神紀に書いてありますよね?だから、通説の学者さんたちもこれがどう考えても方向「逆」だと。歌は石を「上らせてる」ぞと。どう考えても奈良の地形と「合わない」ぞということを通説の学者も言ってたんですね。
私はもう簡単です。はい、もう「御所ヶ谷神籠石を造る時の歌」やろうと。こっちに「大坂山」あるんですよね?あるんです、田川の方。その「大坂山」からずーっと石を尾根伝いに上らしていくんです。あの「御所ヶ谷神籠石」、縦横1メートルぐらいのこの石ですよ。これを全部尾根上っていくんですね。だから、こういう風に崇神天皇の時にもまだ香春の近辺に都があるわけです。
この後に、播磨国から出てきたと思われる景行天皇がここに京を置くんですね。だから、「京都郡」(みやこぐん)というのが、福岡県にあるわけです。その京の跡がこれ「御所ヶ谷神籠石」です。そういうのを今ちょうど景行紀、神功紀を読む会でやってるんですがね。さぁ、そこで私がずーっとこだわってきたのがこの「天香山」ですがね。はい、これが「通説の天の香具山」です。
ほら、低いでしょ?これ、奈良県の天の香具山です。148メートル。先程の(*不明)万葉集2番歌、<~國原は煙立ち立つ海原は鷗立ち立つ~>カモメが飛ばんのです!「海」がないから!こっから絶対海見えないんです。ところが、香春の三ノ岳が「天香山」であるとするならば、これは当時の海が、すぐ近くに見えるんですね。後で証明していきますけどもね。それに対して私が唱えたのがこれですね。昭和10年の「香春三山」です。これが本当の「倭三山」であろうということですね。


