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2017年5月24日

#005 「続・真実の仁徳天皇」福永晋三 [10分~15分]

何せ卑弥呼さんが即位して、それから魏に使いを送る。そこまでにも年代がありますね。それからもっと大事なのは男王が780年留まったと書いてあります。それを計算に入れると、もう自動的に西暦121年の辛酉の年しかないわけなんです。神武さんが倭の国を始めたというのは。それはどこで始めたのか?「香春岳・一ノ岳」、あの畝傍山の東南であったということをこの国で初めて言ったわけなんですね。


だから、私が捉えている九州王朝論というのは、倭国、つまり倭の国はかつての「豊国」、「豊前・豊後国」であったということを言っとるだけなんです。これがその国内史料です。明らかに「威奴国」倒したって書いてある。威奴の邪神を追い払った。そういう、これ貴重な史料なんですね。したがって、古代の倭の国はもう簡単です。「九州」に興きたんです。「北九州」に興きたんですね。




次の写真が、これがその求菩提山に残る神武天皇の東征を手助けしたこれが「頭八咫烏」です。あの真ん中にいるのが大天狗・豊前坊ですね。このお宮さんが英彦山の近くの高住(たかす)神社という所にデンと居座っていらっしゃいますね。周りがその家来の、これは八人(やたり)の烏、八咫烏です。デフォルメされてますが、どうもインドのガルダ神がモデルのようです。


「カラス」という言葉はインドから来たんじゃないかと。「ガルーダ」から来たんじゃないかと。つまり「ガルーダ」の神を祀る人々です。つまり、あの英彦山辺りにかつてインド・アーリア系の人たちが住んでた。だから、みなさんたちがよくご存じの「天狗」というのはデフォルメされると「真っ赤な顔」に「高い鼻」、インド・アーリア系の顔なんです。これもいつも言っております。


だから、神武天皇の東征という記事は「本物」ですよと。「実在」ですよと。だけど、近畿の奈良県大和には行ってませんよと。この前、菊池の研究会でもお話ししましたけども、神武さんは先程古川さんから案内がありましたように、何と旧・蘇陽町のあの辺りに生まれたらしいんです。


それで吾平山、菊池の近くですけどね、あそこで青年期を過ごしたか何かして、それで途中吉野ヶ里の、あの「お佐嘉の大室屋」を倒して、それで博多湾に至るような北九州の西半分を領有する大国をつくり上げて、そしてニギハヤヒが始めた先程の金印の国、豊前・豊後国を乗っ取ったわけです。


これが神武の東征であろうと。だから、もう一つの、古川さんもCDにしてくれてますが、「神武は筑豊に東征した」というのを書いたのがこれなんですね。しかも、これも『鞍手郡誌』、本を正せば「射手引神社社伝」の中にしっかり残されていたんですね。だから、神武さんを奈良県にやっちゃいけなかったわけです。それをやらかしたのが『古事記』、『日本書紀』なんです。


九州王朝論の祖である、元祖である古田武彦さんも間違ってそのまんま奈良県にやってしまったわけです。それで近畿分王朝なんていう馬鹿なこと言うようになってしまったわけです。とんでもない、倭の国・邪馬臺国は元々「九州」だよと。奈良県と言ってる学者の方がおかしいんだよと。こういうことを私言っとるわけなんですね。さぁ、それでその神武さんが橿原宮を建てた後、その陵も『日本書紀』に書いてある通りですね。




はい、香春の町にあります「おほきんさん」という墓です。これが多分神武天皇本物が眠ってるはずなんです。まだ掘られてませんね。これ香春にあります。そして、香春一ノ岳が本当に畝傍山であるならば、ちょうどその畝傍山の「東北陵」という『日本書紀』の記述にピッタリの位置にありますね。奈良県、全然今の畝傍山とその地理関係当たってませんよ?


だから、『日本書紀』に書いてある記述、本当にそうなんですね。そういったことをずっとやってきたわけです。(*省略)そうやってずーっとその倭国・倭の国は『万葉集』から追究していっても、ほとんどやはり旧・豊国、つまり豊前・豊後国にあったよと。大事なことは『万葉集』は古田さんが言う所の九州王朝、私の言う所の倭国豊国論の立場から言っても、九州のあちこちで詠まれた歌が実は『万葉集』の一・二巻に入っているんだよということを言ったわけです。