[質問者:
そして、その神功皇后が宇佐神宮の第二宮ですね。第一宮に祀られているのはその息子である応神ですね。第三宮が神功皇后になってるわけですね。そうなるとですね、神功皇后っていう方は二人祀られてるということになるわけですね。だから、その誤解を解くため、その誤謬を解くために三女神という現代の宗像大社、神社に祀られてる神様を持ってきて、宇佐神宮の第二宮にしてるだけなんですが、これは明らかな間違いです。本当の神様は「おおたらしひめのおたまやの~」、「みたまやの~」でもいいんですけど、「~おたまやのかみのいますやしろ」から招聘した、招聘されたのが宇佐神宮の第一宮なんです。そういうことで、その今、宇治氏ですね、宇治天皇の、宇治天皇と呼ばれるのは(*不明)なるわけですが、宇治氏からその安心院(*不明)へ、安心院から(*不明)、そしてそれが先生の今日の論点になってるその筑豊の、豊国の源泉になってるんやなかろうかと、そういうことを、先生がその神功皇后のですね、息長氏ということで、現代では大体その琵琶湖の近くの一族だって言われてます。先生はどちらから神功皇后は出身ていうか、出たと思われますか?]
ええ、最初の方に言ってますように神功の出身は逆に「近畿」です。近畿から出た神功が倭国を滅ぼすわけですから、今のだから、近畿大和が元々の大和王家の発祥の地だとする通説の側はもう少し私の説を支持してくれてもいいんですがね。近畿が九州に勝ったんですから、ええ(笑)。そういった意味ではそれを楽しみにしてます。それから、さっき阿蘇氏の先祖が宇治氏だという話がありましたけども、香春二ノ岳の麓に祀られてるのが、「阿曽隈社」っち言うんですね。
で、私もずっとわかんなかったです。「阿曽隈社」。可能性があるんでしょうね。だから、やっぱりそこで滅んだ一族が全滅しなければ、やっぱり都から少し遠い所に生き延びたのかも知れませんね。それから、阿蘇神社が確かに「航海の神様」であることは間違いないです。で、遣唐使が唐に渡る時に五社にお祈りするんですが、五社の内の一つが阿蘇神社であることはまぎれもない事実ですね。ちゃんと古文献に残ってます、はい。阿蘇氏の先は宇治氏というのは知らなかったです、はい。
[質問者:
仁徳王を正統とするのが『日本書記』に(*不明)ですけど、なぜですか?(*省略)なぜ『日本書記』は仁徳を正統化してるんですかね?]
「大鷦鷯」でしょ?『日本書紀』は「大鷦鷯」を正統としています。
[質問者:
そうそうそう。で、何でですか?]
ですから、これは謎でして、だからやっぱり、その『日本書紀』というのも時代時代によって何回も編集され直すんですね。だから、少なくとも仁徳の巻が完成する時には、大鷦鷯を正統とする天皇、その家来たちがまとめる時にはやっぱり宇治天皇の存在消さないかんでしょうね。ですから、やっぱり逆に言えば先程申し上げたように、王権というのは、天皇家というのは万世一系ではなくて、その都度その都度家系が微妙に変わるんですね。変わる度に歴史が書き換えられるらしいんですよ。だから、難しいんです。
[質問者:
『古事記』もやっぱり『日本書紀』と同じことやってるでしょう?]
そうですよ。だから、『古事記』の方が圧倒的に大雀を正統にしていますね、ええ。それに対して『日本書紀』は一応宇治天皇の業績をああいう形で残してくれてるんで、まだ『日本書紀』の方が何と言いますかね、正当というかフェアというか、とにかく宇治天皇の業績それでわかりますもんね。『古事記』だったら、わかんなかったと思います。だって「太子大雀」が髪長比売を貰ったになってますから。
それに対して『日本書紀』はあくまでも、「皇子大鷦鷯」って大義名分はっきりさせてありますんでね。結局、その「サザキ」の系統の方がやっぱり天下を握ってる時に、この仁徳紀は編まれたんだと思いますね、原型が。だから、本当の仁徳さんはやっぱり宇治さん、宇治天皇さんだと思います。で、ここの中に「佐々木」さん、いらっしゃらないでしょうね?いらっしゃっる?ああ、良かった。佐々木さんていうのはそのサザキ天皇の系統です。暴虐の天皇の系譜です。佐々木小次郎も多分、はい。(笑)