『日本書記』はそれを一部しか残してない。『古事記』はそれを更にもっと簡略して、大芝さんが言う通りであれば、「豊前側に偏った記録」ではないかという説があるんですね。豊前の側だけの歴史を書いたのが『古事記』じゃないかと。だから、『古事記』の方が家系と言いますか、皇室の系譜としてはスッキリしてるんです。『日本書紀』は読んでるとゴチャゴチャなんですよ。神代が特に、一書に曰く、一書に曰くでどこが本家かってさっぱりわかんないですもんね。はい、そういう話がわかっております。はい。
[質問者:
非常に(*不明)な話で面白かったんですけど、『日本書紀』読んでまして、天皇紀読んでて一番面白くないのが仁徳紀で、(*不明)読み飛ばして2、3度しか読んだことないんですが、この中にあってですね、仁徳紀で一番変わってるなと思うのは問答歌形式のあれが中に一番含まれてるわけですね。これは他の天皇紀とはちょっと違ってですね、だからこれはどっから持ってきたんだろうっていうことで、私も一生懸命考えたんですが、今日の先生の話でその、この豊前の地域の宇治氏の、宇治天皇の名前があって、非常に私が数年間問題、疑問に思ってたのが氷解しました。というのは「宇治氏」っていうのは一番大きな大国で残ってるのは「阿蘇氏」なんですね。あまり知られてないんですけど、阿蘇神宮っていうのありますね…]
ええ、間違いなくあそこにあれですね、(*不明)神が祀られてますね。
[質問者:(*不明)宇治氏の(*不明)。はい、それで宇治氏が何でこんなに繋がるんだろうって、ということで…」
ああ、阿蘇氏ですか。
[質問者:
(*不明)それを繋いでくれたのが、この先生の2番目のですね、西海道北部の駅舎、(*不明)駅のですね、『延喜式』の以前の駅家と駅路という『香春町史』の(*不明)のですね、この辺りで出てくるんですが、阿蘇から、阿蘇というと我々の感覚で言うと、(*不明)熊本県、熊本平野に流れるという白川の流れとかですね、あの思いでおったんですが、阿蘇氏、宇治氏はあれから行きますと、豊後のですね、(*不明)とか(*不明)ですね、それから石井ですね、その石井って書いてる所が現代の日田市なんですが、(*不明)ですね。そういったこの(*不明)からこの(*不明)って書いてますけど、実は(*不明)の間に(*不明)先生のその(*不明)ですね、これは(*不明)ますけど、「安」っていう字に「西」っていう字に「ふ(*不明)」っていう風に書いてですね、昔は3文字だったんですね。そして、「あしぶ」と読んだんじゃないだろうかと。]
ああ今、それが今の安心院ですか。
[質問者:
ええ、それが今の(*不明)から安心院ですね。そしてそれを繋ぐのは、って言ったのはですね、延喜式の神名帳にですね、神名帳の豊の後の国の宇佐郡に名神大の神社が3社あると書いてあるんですね。それを現代の『延喜式』の通釈をされてる方たちはみんな宇佐神宮一社にやってしまってるわけです。ところが、あれは明らかに3社のことを書いてあるんですね。宇佐宮ですね。それとあの通称でいえば「(*不明)神社」っていうのがあります。それからもう一つ「妻垣神社」ってあります。その「(*不明)神社」と「妻垣神社」ってのはどこにあるかっていうと、この「あしぶ」にあるわけです。安心院にあるわけですね、はい。そして、その「妻垣神社」の古い名称は何て言われてるかというのはですね、「おおたらしひめのおたまやのかみのいますやしろ」です。つまり、「大帯比売/大足姫廟神社」。「廟」がついてるんですね。全国の神様の中で「廟」がついたもんって、あれってのは非常に少ない、神社の名前に直接ついてるってのはほとんどないと思います。]
あと「香椎廟」だけですね。
[質問者:
(*不明)だったりします。それととにかく大足姫の、大足姫が宇佐神宮の第二宮に祀られてるんですが、これが現代宇佐神宮においても、誤解されてるんです。これがちょっと私の方でそれを解明したものを書かないといかんというので、数年前から取り組んでるんですが、この大足姫という名前が出てくるんですが、これが実はその神功皇后ではないかと。…]
[質問者:
そして、その神功皇后が宇佐神宮の第二宮ですね、第一宮に祀られているのはその息子である応神ですね。第三宮が神功皇后になってるわけですね。そうなるとですね、神功皇后っていう方は二人(*不明)祀られてるということになるわけですね。だから、その誤解を解くため、その(*不明)を解くために(*不明)という現代の(*不明)神社に祀られてる神様を持ってきて、宇佐神宮の第二宮にしてるだけなんですが、これは明らかな間違いです。本当の神様は「おおたらしひめのおたまやの~」、「みたまやの~」でもいいんですけど、(*省略)「~おたまやのかみのいますやしろ」から招聘した、招聘されたのが宇佐神宮の第一宮なんです。そういうことで、その今、宇治氏ですね、宇治天皇の、宇治天皇と呼ばれるのは(*不明)なるわけですが、宇治氏からその安心院(*不明)へ、安心院から(*不明)、そしてそれが先生の今日の論点になってるその筑豊の、豊国の源泉になってるんやなかろうかと、そういうことを、先生がその神功皇后のですね、息長氏ということで、現代では大体その琵琶湖の近くの一族だって言われてます。先生はどちらから神功皇后は出身ていうか、出たと思われますか?]