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2017年4月28日

#004 「真実の仁徳天皇」福永晋三 [2時間45分~2時間50分]

歌の方からじゃないんですが、どう言いましょうかね。倭人の国というのが、非常に複雑でしてね、古田武彦の方に「海峡国家」という言い方がありまして、玄界灘を挟んで韓半島南部、朝鮮半島南部とこの北九州とに跨って倭人は住んでいたんだ、そういう捉え方があります。このところ、私もそれに伴いまして、いや江南の倭人っていう説もありますので、もっと大きく倭人はやっぱり「海洋民族」であって、もっと大きく言えば環東シナ海、「環東シナ海の一族」だったんではないかと思ってます。


だから当然、九州から朝鮮半島渡ったり、中国に渡ったり、あるいは中国から戻ってきたり、韓半島から戻ってきたり、そういう往来の歴史というのがあって、したがって「天孫降臨」も、ニギハヤヒのような「天神降臨」も、全て元々は倭人が、韓半島にいた倭人がこちらへ戻ってきたとかですね、そういう関係がありやしないかと考えております。


九州古代史の会の兼川晋さんなんていうのは、そういう私の「倭国易姓革命論」の後を受けまして、日本の古代王朝と百済王朝ということで、その神功皇后の時に、武内宿禰あるいは応神、で、応神の父親はだから、ひょっとするとその「武内宿禰」ではないかと思われるんですね。仲哀の子供ではなさそうです。はい。その所は、なんとなくわかっておりますが、とにかくそういう血筋のもとにですね、やっぱり王が交代していくわけですよね。


血筋どんどん入れ替わるんです。ただそこは不思議なことに、日本の天皇家は『隋書』俀国伝に見られますように、姓は「阿毎氏」ということで、「阿毎」という姓はずーっと受け継ぐんですよ。血筋変わっても。それで一見すると「万世一系」に見えちゃうわけなんですね。それでだから、「あまつきみ天皇」という言い方もそこで成立するわけなんですよね。だから、それがちょっと難しい所なんですが。


その兼川さんなんかが私と話した、個人的に話した時にも、我々がよく知る百済、あるいは朝鮮半島の方は「弟百済」であって、この久留米を中心に成立した玉垂命の経営する貴国ですね、倭国ですね、これは「兄(あん)ちゃん百済」であると。とんでもない話になるんですが「兄ちゃん百済」であると。ここを流れる(*不明)、大善寺玉垂宮の南を流れる川「霰川」(あられがわ)っていうのは元は「ありなれ川」って言うんですよね。


だから、百済の一族は明らかにここに来て、王に就いたんじゃないかと。だから、神功天皇の後の応神天皇の時代なんかにはですね、弟百済の国が新羅と仲を通じたりすると、けしからんって言って冗談抜きに本当に首を挿げ替えて帰ってくるんですよ。応神朝は。大変なことでしょ?それがどうして倭国がその百済国に対して出来ちゃうんですか?


新羅と通じたから、お前はけしからん、本当に首をチョンと切って、それで次の王立てて帰ってくる。後はもう記録にありますよね。だから、その兼川さん説によると、4世紀の頃になってもまだ韓半島からこっちへ来て、王家を立てた記録がありそうだっていうわけですね。


えぇ、それが 武内宿禰の国なのか、神功皇后・応神の家系なのか、これはまだこれからやんなきゃいけないことですが、今私がやっていてもですね、これもまた変な話ですが、豊国の応神と筑紫国の応神、つまり大善寺玉垂宮による応神とどうも二人いるらしいんですね、その兼川さん説じゃないですけど。だから、『日本書紀』は場合によっては二つの王家、三つの王家の家系をですね、全部一つにつなぎ合わせたというか、そういう書き方をしている節があるんですね。


今近くにやってる所でも、天智と斉明というのが、7年間くらい本当はダブるんですよ。どうしても年代が合わないんですね。そういうのが『日本書紀』にはあちこち漏れて伝わっておりますので、これから分析していかなきゃあかないんですが、豊の王権と、さっき言いました「豊君」と「筑紫君」、これもやっぱり権力のバランスというのが非常に複雑怪奇なんですよ。