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2017年4月27日

#004 「真実の仁徳天皇」福永晋三 [2時間40分~2時間45分]

はい、私の方では神功皇后の時が「革命王朝」だと言っております。したがって、神武の系譜はここでもまた途絶えます。はい。それと神功の系統ですが、このニニギノミコトの子孫と思われる神武が豊国に入って来まして、ニギハヤヒノミコト以来の「倭奴国」ですね。その倭奴国についてはみなさんの地図の中にも一つの証拠が書いてあるんですが、あれを「いぬ」と読む証拠ですね。(*省略)


例の地図の一番東南の端に「犬ヶ岳」ってございますよね。「いぬがたけ」。で、求菩提山の縁起というのが求菩提山の資料館の中に展示してありまして、そこに開いたページの所にですね、神武天皇が鉾を揺らして威奴の邪神を撥ったという文句があります。だから、確かに求菩提山縁起に残る限りにおいても、「威奴国」を倒すんですね。その威奴国の残った連中ですね。


求菩提山は八咫烏一族です、はっきり言って。その八咫烏の一族が烏天狗として、大天狗と一緒に木像がこう置いてあるわけですね。その頭八咫烏が道案内をしたということで、神武天皇から褒美を貰うんですよ。それが多分、領土だと思うんですが。これこそが、実は「飛ぶ鳥の明日香」ということで、今の田川郡赤村が中心だと思うんですね。で、一番端っこが「烏尾峠」だと思うんですよ。


それでとにかく神武天皇は、「大王」(だいおう/おおきみ)さんですけども、は筑紫とそれから豊前ですか、豊後、この辺りを領有することになるわけですね。で、その後、手研耳命が継ぐんですが、これもですね、土地の物部氏の女(むすめ)との間に生まれた綏靖に暗殺されて、乗っ取られちゃうわけですよね。これ以後が、「倭国大乱」になりますので、神武の血筋は続くことは続きます。


それで卑弥呼さんが現れますんで、卑弥呼さんの時にも、ひょっとしたら神武の血筋は一旦絶えるんだと思います。で、その後しかし、神武王朝らしきものが卑弥呼さんの後、宗女・台与ですか、その後もまだ続くんですが、360年代に入って、神功さんが東の国からやって来て、豊国を滅ぼしますんで、熊襲を退治して。忍熊王が滅んだところで、神武の系譜は一旦完全に途絶えたと思われます。


だから、私はそれで最初の頃に「倭国易姓革命論」というのを書いております。だから、ここで一旦途切れます。神武の系譜は。で、神功さんはその時、豊国が、豊後の鶴見岳とか、そういう火山活動のせいで豊国は荒れ果てておったんで、それでこっちの「水沼」に皇都を築いたらしいです。火山ガスの影響のない所に。それで、ここで武内宿禰とどう関わるか知れないんですけど、『日本書紀』では「貴国」、「貴い国」と書きまして「貴国」という国を建てます。


で、ここの土地に「紀氏」、あの紀貫之の「紀」ですけど。「紀氏」という一族が、まだ当時の天皇家として、この土地に存続し続けたようです。で、やがてまた豊国に戻っていくらしいですけどね。王家、天皇家が。いずれにしろ、筑紫国と豊国で、その時代時代で王権の中心地というのは少しずつ東西に移動します。それが今の私の捉え方です。はい。神功さんの時に一度は神武の系譜は完全に途絶えます。ですから私は「万世一系」ってことは考えておりません。はい。


[質問者 : 非常に貴重なお話を今日は発表さしていただいて、ありがとうございました。今まで仁徳天皇って言いますと、(*不明)と思ってましたけれども、今日もうはっきりしたわけですが。それでですね、そこで仁徳天皇の出自についてですね、韓国(からこく)の王子だという説があるようでございますが、その辺のことについてどうなんかなっていうことが一つと、あの今(*不明)の話が出ましたからもう一つついでと申しちゃあれですが、いわゆる応神天皇は久留米の蚊田の宮で御生まれになったいうことなってるようですけれども、その、じゃあ、神功皇后の、その応神天皇の実際の父親は成務天皇であるのか、仲哀天皇であるのか、その辺を歌の中から何か、先生ご研究なっていることあったら、お教え願いたいです。」