そしたら、3年間の聖帝故事、ピッタシでしょ?その3年を経て、今は春べと帝の栄の時期と一緒に梅の花が咲いて、誇らしげに咲いているよと、こう詠うわけですね。さぁ、同じ歌詞でこれが、とにかく宇治天皇が何らかの形で死に追いやられた後に大鷦鷯の時代が来ますね。その時に難波津の什と一緒にこの歌が添えられました。そうすると、この歌解釈、一転して「そへ歌」なるんですね。
[あなたの、その大鷦鷯さんの難波高津宮に咲いていますか、梅の花は。いや、咲きますまい。~]もう、打ち消しちゃいます。で、[~あの宇治帝のように3年間、民のために税も取らずに耐え抜いた、そういう政治をあなたはなさいましたか。~]と、そして[~宇治帝は今は春と、盛りの春と梅の花咲きましたけど、あなたの難波津宮には梅の花が咲いていますか。民と共に苦労することがなければ、民のことを思いやらなければ、梅の花は決して咲きますまいぞ。]
「批判歌」でしょう?同じ語法で成立するんですよね、この解釈ね。だから、そんな「単純」な歌じゃなかったんですよ。今までの学者さんたちの解釈見てください、簡単ですよ。[難波津に咲いています、梅の花が。冬ごもって今は春だと咲いていますよ、この花が。]こういうことしか書いてない。全然、何の意味もない。でも、今まで今日みなさんにお話しした菟道稚郎子と大鷦鷯尊との政治的な確執、髪長媛を間に挟んでの確執。
そして、片や「王道政治」、「聖帝伝説」の業績を残した宇治の帝。それに対して、その宇治の帝を死に追いやった大鷦鷯の帝。その二人のことを考えた時に『百人一首』、そしてこの謎の「難波津の歌」も『古今和歌集』の「仮名序の謎」も1000年ぶりに解けたわけです。この都立高校の一教員が、そうそうたる大学者を向こうに回して、新しい説を出したんです。これが「倭歌が解き明かす古代史」の一節でございます。終わります。<拍手>
<休憩>
(*休憩中の会話部分は省略)
あの、じゃあ宇治天皇さんに関しまして、菟道稚郎子さんに関して、実はもう一つ非常に気になることがありましてね。偽の仁徳さんもそうなんですが、実は香春の町の中に偽って言ったら怒られますけど、大鷦鷯さんのですね、墓が『日本書紀』に「百舌鳥野陵」(もずののみささぎ)(*訂正済)と書いてあるんですよね。「百」に「舌」と書くあの「百舌鳥野陵」。この「百舌鳥原」(もずはら)という地名がですね、(*省略)香春の北の方に本当に「百舌鳥原」ってあるんです。
だから、ひょっとしてその辺りから何かお墓が出てくれば、それが本物の、本物の何て言えばいいですかね…大鷦鷯陵ですね。仁徳陵なら間違いになりますね。大鷦鷯陵です。それで私が本物の仁徳さんという宇治天皇さんは、実はお墓がありません。で、この方のですね、お墓の記録がですね、変わった古典の中にありましてね。で、この方は火葬されたっち言うんです、古墳時代に。
古墳時代に火葬されたっち言うんです。だから、いわゆる前方後円墳とか円墳とか、ああいうお墓におさまってないっち言うんですよ。それで、香春の町にですね、今度は「伽藍松」という「から」という何て言いますかね、「きゃら」という字を書くんですが、「伽藍松」という地名がありましてね。それが今も香春の町の中にあります。そこの伝承が不思議なことに、伽藍て言いますから、お寺の跡とも言うし、「陵墓」とも言うって書いてあるんですよ。
で、『万葉集』の中にその菟道稚郎子に関する歌がありましてね、それで残された髪長媛が夫であるその菟道稚郎子を嘆き悲しむような歌の中に、「一本松」が出てくるんですよ、歌の中に。その「一本松」と香春の町に残る「伽藍松」の地の伝承で、あるいは陵墓というって言うんですから、これがひょっとして、失われた宇治天皇さんの、本当にあれだけの政治をされていたにもかかわらず、悲しい最期、一番最期には火葬されてお墓もないという宇治天皇さんのお墓なのかなという、そういう最期まで人民を煩わさなかったという非常にやっぱり偉い天皇さんだということですね。
そういうのを香春の町の中に見つけた時に、「はぁ、これが宇治天皇さんの最期か…」なんて思ったら、ちょっと悲しくなりますけどね。そういう伝承地らしきものがございます。これくらい付け足して、後はもし質問がございましたら、お答えいたします。
[質問者
:
すいません、あの、初めの時間帯で神功皇后の侵入というか、が、の話が合ったんですが、神功皇后が豊国、筑紫国を侵略していったんですよね。で、じゃあ、その前からあった神武天皇のずーっと代々(*不明)が続いていってるわけですよね。それとも神功皇后で誰かと替わって(*不明)天皇も替わってるんですか?」