ページ

2017年4月25日

#004 「真実の仁徳天皇」福永晋三 [2時間20分~2時間25分]

「朝廷の御初め」。つまり、「この国で初めて王道を敷いた王朝の初めを寿ぐ歌」だというのが多分、紀貫之さんの真意だったんでしょう。で、これをですよ、次に紀貫之さん仮名序において、大鷦鷯の帝に対しては、これは「そへ歌」だと言うわけです。同じ歌なのに。それは真名序の方の時にはですね、「難波」波立ち難い、こっちですね。「難波の什(じゅう)を奉る時のそへ歌」だって言うんですね。


で、「そへ歌」というのが、これが「政治批判の歌」だって言うんですよ。で、今までの国文学者は『日本書紀』の記述に従って、菟道稚郎子と大鷦鷯天皇が皇位を譲り合った、だから3年間空位だった、そのことに対して、大鷦鷯に対して「空位」を空けたことに対する批判の歌だってことで、わけのわからん解釈してたわけですね。で、「難波の什」のことをこれは真名序ですがね、これをこの歌、たった一首だってしたんですよ。


ところが今回、私が綿密にやっていったらですね、これが「難波津の什物」ですかね。で、こういう言い方がありましてね、これが我が国の言葉で「国の秘宝」なんですよ。で、それは当然王仁さんが菟道稚郎子・宇治帝にお教え申し上げたところの「諸典籍」、つまり百済の国から持って来た数々の貴重な古典ですね、書物ですね。これが結局、大鷦鷯が宇治帝を何らかの形で死に追いやった後に、大鷦鷯の天下になった時に、この諸典籍を次の新天皇に渡さざるを得なくなった。


その時に本来は菟道稚郎子・宇治帝に差し上げていた「朝廷の御初め」であった歌が一緒に添えられた。で、それはそのまま「大鷦鷯への批判の歌」になったという風に解釈したわけなんですね。そうした時に初めて『古今和歌集』の仮名序の意味がわかったんですよ。そして「比良宮」というのは、さっき言いましたように古遠賀湾に臨む宮です。したがって、これも波立ち難し「難波津宮」です。


そして、片方の行橋の方にあった「難波高津宮」もこれも「難波津宮」です。だから、「難波津」共通です。片方は比良宮、宇治天皇の新宮殿です。もう一つは宇治天皇を死に追いやった大鷦鷯の帝の難波津宮ですね。最初の「朝廷の御初めの歌」も簡単ですね。


[難波津に咲いているよ、梅の花が。それはちょうど冬の間に木の芽が盛り上がるように3年間、民から税を取らずに耐え抜いた帝さんのおかげで、そして新宮殿の成った今、民と共に喜ぶ春に咲いているよ、梅の花が]という、まさしく「宇治天皇の朝廷の初めを祝う歌」だったわけです。これ、私の新解釈。みなさん日本で今45番目に聞かれています。良い歌でしょう?


だって、師匠の王仁さんが詠った歌だから、そうでしょ?3年間、耐えに耐えて、人民を休ませるために耐えて耐えて、そしてその人民が恩返しに新宮殿つくった。そこに春、梅の花が咲いて、そして民と共に喜ぶ春が来たんでしょ?だから、「冬こもり」がキーワードだったんですね。これ、木の芽が盛り上がる様です。冬の間に、ちゃんと木々は次の春に備えて花を咲かせるために準備するわけです。