ページ

2017年4月14日

#004 「真実の仁徳天皇」福永晋三 [2時間15分~2時間20分]

で、山頂にお登りになって、「どうか民のかまどから煙が上がっていますように」って。わが君を思いやる歌なんじゃないですか?そうしたら、これ、ただの「叙景歌」じゃないでしょ?今までの『万葉集』の読み方、あまりにも底が浅すぎましたね。何で人間が着る1メートルや2メートル程度の着物が干してあって、どこが雄大だ?っていう元々の問題ですけど。


そこに詠み手の心情が全然表れない歌だったですよね。これ、宇治天皇さんの二度目の国見を送る歌。良い歌ですよねぇ…叙景と相まって宇治天皇さんの気持ちを知りぬいた髪長媛が「どうか民のかまどが賑わっていますように」。こんな優れた天皇さんと皇后さんがいつの時代にいらっしゃったんですか、いらっしゃったんですね。これを平安時代の皇室と現在の皇室も今なお、本来ならばこの宇治天皇さん、本当の仁徳天皇さんを敬ってらっしゃるわけがわかりますよね。


そして、藤原定家が何でこの『小倉百人一首』で、12番にこの歌採ったか?彼、知ってたんでしょう多分。半分以上。これこそ、王道政治の「見本の歌」でしょ?「お手本の歌」でしょ?で、この、その<(*不明)齊へず>とか要するに草葺きの屋根でその端っこの方も切り揃えもしないような宮に住んだというのは実は中国の「堯(ぎょう)・舜(しゅん)・禹()」という伝説の堯帝の故事に基づくんですよ。


このお話は。で、宇治天皇さん、その堯帝の儒教の経典に書かれた堯帝ですね、「帝堯陶唐氏」(ていぎょうとうとうし)の政治をですね、本当にこの日本の地で、それを実現したらしいという、そういう帝さんなんですね。その宇治天皇さん、菟道稚郎子さんにですね、その儒教の教えを教えた人がいるんですよ。これも、『日本書紀』仁徳紀に書いてあります。はい、「王仁」さんです。王仁なんです。「書首」(ふみのおびと)もそうです。


百済からやって来ました。非常に偉い人です。で、この方が諸典籍、諸々の書(ふみ)を太子菟道稚郎子に教えたということが、ちゃんと仁徳紀に記されております。だから当然、その中国の大昔の伝説時代の堯帝の王道政治というのも、よく知っています。あるいは『孟子』の、人に忍びざるの心有りて云々という王道政治も全部知っています。多分、王仁さんから儒教の経典全部教わってるはずです。


あの大鷦鷯は、教わってません。菟道稚郎子さんだけです。ひたすら、「阿直岐」(あちき)とか王仁から教わってるのは。そういうことでございますね。その王仁さんの歌がですね、平安時代の伝承によれば、この歌なんですよ。で、これが百人一首のカルタ競技の前に歌われる有名な歌なんです。<難波津に咲くや木の花冬こもり今は春べと咲くや木の花>。これから、競技が始まるんですよ。


で、これは平安時代の文書には「古萬葉集」、古の萬葉集にあったって書いてあるんです。今の『万葉集』じゃ当然ありません。でも、不思議なことにはこれは、この歌はですね、奈良時代、あの奈良の平城京から木簡に書かれた歌として出てくるんです。で、その時に今度は平安時代に移りますが、『古今和歌集』の仮名序を書いたとされる紀貫之、で、この養子になります紀淑望(きのよしもち) が『古今和歌集』の真名序、そして貫之が仮名序を書くんですね。


その仮名序の中にこの歌、出てまいります。やっぱり王仁さんが詠んだ歌だって書いてありますね。で、この歌がですね、一つはですよ、一つはですよ、「みかどのおほむはじめのうたなり」って書いてある。ひらがなで書いてます。「みかどのおほむはじめのうたなり」。


で、これを今までの国文学者たちはですね、意味がわかんなくなって、漢字で書く時に、「帝の御初め」ということで、大鷦鷯天皇、私に言わせると偽者の仁徳天皇の初めの時を寿(ことほ)いだ歌だっていう風に解釈してきたんですよ。しかし、もうわかりますでしょ?王仁さんは菟道稚郎子さん、宇治天皇を教えられたんですから、この「みかど」というのはこの字()じゃなくて、本当は単純に言うとこっちの字(朝廷)ですよね?