それでも宇治帝さんは、宇治の帝さんはどうもそれでもなお税金を取られないで、ようやく重い腰を上げて、じゃあってことで、新宮殿建設に取り掛かるんですね。それを「比良宮」(ひらのみや)というんですがね。で、その建設に取り掛かった途端に3年間税を取らなかったんで、もうこれでここで宇治天皇さんへ恩返しやということで、老若男女がですね、日に夜を継いで、それで突貫工事で新しい宮殿つくったっち言うんですよ。
だから、人民が恩返しするんです。ね、宇治天皇さんのためならエンヤコーラ♪っつうな感じで。あっという間に新宮殿つくったっち言うんですよ、立派な新宮殿を。それが書いてあるんですね。で、その『日本書紀』の十数年にわたる「聖帝伝説」を結局『古事記』の時系列3年間が正しいだろうと思うことで、私はこれ復元したんです。で、要らないもの、それから『日本書紀』の編者が勝手に書き換えたものを全部消していったんですね。
で、主語の「大鷦鷯」をすべて「菟道稚郎子」に換えたりとかね、そういうことしたら見事3年に奇麗に収まるんですよ。(*省略)で、それをやっていきますとですね、その中に出てくるのが実に面白い話でしてね、民から税取らなかったでしょ?それで、宇治天皇さんがお住まいになった宮殿はですね、えらくボロなんですよ。で、屋根が草葺きなんです。草葺き。で、税を取らなかったからその草葺きの宮殿さえ修理出来ないんです。
雨漏りがするんです。雨漏りがするんです。で、その雨漏りの場面も面白いですよ。雨漏りがする所に箱を置いていって、何かどっかのマンガで見たような昔の家ですね。雨漏りの所に箱置いて、それで自分たち雨漏りがしてない所を転々と移動しながら雨の降る夜を過ごしたっち言うんですね。すごい帝さんですね。食い物もすごいです。プーンと酸っぱく腐った臭いがするまでは、昨日の物、一昨日の物食ったっつうんです。
毎回新しい食事作らなかったっち言うんです。そこまで耐え抜いたんですよ。着物、ボロボロ。履(くつ)、履物ボロボロ。でも変えない。ひたすら民のため。「民の生活第一」。小沢さんじゃないですよ(笑)。本当に、「民のため」ですよ。食事も腐る寸前まで食べられたとかね。それから衣服も新調されなかった。そういう帝さんてことが、もう『日本書紀』に長々と書いてあるんですよ、「聖帝伝説」。
そして、それで国見なさったというもので、記事が2回出てくるんですよ。それで新宮殿、人民につくってもらって、そこに移られた時にその時に詠んだのがですね、(*省略)この『万葉集』7番歌ということがですね、やっとわかったわけなんです。(*省略)で、この最初の<金野乃~>というのが、やっぱりこれが先程証明しましたように、これは「金の野」らしいということですね。本当に宇治の京があった所です。
そうすると、<金の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の京の仮廬し思ほゆ>ということですね。で、その時にですね、その注の、ただしの所がこれですね、<山上憶良大夫の類聚歌林を検ふるに曰はく、一書に戊申の年比良の宮に幸すときの大御歌といへり>この人民が建ててくれた新しい宮こそ「比良宮」なんですよ。そうすると、この「比良宮」というのも、どうやら古遠賀湾に面した都らしいんですね、新しい宮も。やっぱ宇治の近くですから、もうそうならざるを得ないわけですね。
そうすると、滋賀県のやっぱり比良宮ではないということなんですね。これもまた新しい考え方です。で、その時、新宮殿に移られたわけですよね。その時に、だからこの歌はどうなってくるかというと、[金の野の草を刈って屋根に葺いて宿っていた、民の暮らしが無事に元に戻るために我慢に我慢を重ね、そのために雨漏りもしていたあの宇治の京の仮廬が懐かしく思い出される]という、[民が自分に恩返ししてくれた立派な新宮殿を目の当たりにして、3年間耐え忍んだ雨漏りだらけのあの仮廬のような宇治の京が思い出される]って謡ったのが、この歌らしかったんですよ。