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2017年4月11日

#004 「真実の仁徳天皇」福永晋三 [2時間~2時間5分]

みなさんにもう一回主張します。で、今まで国文学者も歴史学者もこの「豊」というのは「美称」、ものごとを美しく言っただけの修飾語だって言ってきたんですよ。これが「大ウソ」だったと!「豊」と言ったら「豊国」なんです!「豊前・豊後」なんです!「実体」があるんです!だから、「豊秋津島倭の国」、「豊葦原瑞穂国」、「豊葦原中州国」、みんな豊前・豊後を指してたんですよ、昔から。


それを今までの本居宣長以来の歴史学者や文学者たちが、みんなこれを「洗脳」して、「豊」はただの「美称」。「実体」なし。だから、豊(*不明)媛もどこにいるかわかんないと。みーんなこうなっていってしまったんですよ。で、もう一回言います。神功皇后紀やってる時わかりました。「宴」という字を書いたらみんな「とよあかり」って読むんです。詳しい人すぐわかりますね?


今の皇室において、外国のお客さん迎えるあの迎賓館、あの宮中晩餐会やる場所、何て言います?あの御殿?「豊明殿」(ほうめいでん)。「とよあきらのとの」って言うんですよ。ほら、「とよあかり」じゃないですか?「豊」の明かりやないですか?さぁて、私はこう思ってるんです。天皇さんというのは古代の豊君、筑紫君、火君の「豊君」の系譜である…だから、戦国時代に藤原氏を超えて摂政、関白、太政大臣になろうとした木下秀吉は何ていう姓を(*不明)から強奪していったんですか?


「豊臣」ですよ?「豊君」に対して「豊臣」だったら、太政大臣なれますでしょ?なーんてこと言ってるの日本で私だけです。多分、信じてもらえません。でも、歴史は多分そうでしょう。中世の武士、意外と知ってるんですよ古代史を。ねぇ、そう思うしかないですよね?だから、藤原氏にかわって摂政、関白なれたんでしょ?あれ、「豊臣」でないと無理だったですよね?


他の「橘」でなれたんですか?無理でしょう?やっぱり「豊臣」だけですよ、藤原を超えられたのは。なーんていう話をしてるんですがね。はい、そこでですね、そのまた「聖帝伝説」に戻ってまいりますが、その豊君さんの所にね。で、そうしますとね、この宇治天皇さん・菟道稚郎子さんが即位して実は3年間在位あそばされたということで、この菟道稚郎子さんの死というのがまた異様な記録ですよね?


『日本書紀』の仁徳紀、読まれたことあります?菟道稚郎子さん、かわいそうにあのね、自殺されていくんですよ、ええ。そこへ大鷦鷯尊駆けつけましてね、馬乗りなって、弟の皇子に「戻れー」ってこうね3回おらんで、「おら(口刂)びて」ですよ、「九州弁」。「おらびて」。おらびて、たまがえし(*漢字不明)するんですよ。そしたら、パッと目覚めたっち言う。菟道稚郎子さんが。


ねぇ、で、私はもうね、政治のことでね、兄さんを煩わせたくないと。先に逝くよと。そうしたらね、大鷦鷯さんはね、お前応神があれほどね、父がね、お前のことかわいがってたのにお前が先に逝ったら俺がお前後で何悪口言われるかわからんやないかと、お前ちゃんと跡継げやなんてこと言うんですね。その時点でも大鷦鷯優しい帝のような気がするんですがね。しかし、その後にね、更にね、菟道稚郎子さん変なこと言うんですよ。


私はもうこれでもうね、先に逝くと、で、アンタお兄ちゃんのことは悪く言わんからと。父ちゃんにちゃんと報告しとくからと言って死んでいくんですよ。その時、変なことにね、同母妹の、妹の八田皇女(やたのひめみこ)を差し出すと、妃に加えてくれ言うて死んでいくんですよ。「変」でしょう?「嘘」ですよ。「殺した」んですよ。ベッド下の大鷦鷯さんが。何らかの形で 菟道稚郎子さんを死に追いやるんですね。


追いやった後に髪長媛をグーッ、自分の物にしちゃうんですね、はい。で、その菟道稚郎子さんが3年間の間に、先程言いました「聖帝伝説」というのがですね、『古事記』は非常にシンプルに3年、活字本でせいぜい10行ぐらいしかないですがね。『日本書紀』ものすごく長いんですよ。3ページくらいあるですよ。この3年の聖帝伝説が。ところが、これがものすごく改竄がほどこされとりましてね。


記事はほとんど事実なんですけど、年数がですね、異常に伸びて、3年超えちゃうんですね。もう下手したら十数年オーバーしちゃうんですよ。聖帝故事が。で、実は聖帝故事伝説の一番最後はですね、税が民のかまどが賑わったから、それで家来たちがもうこれで民の元気が戻ったから、これで税を取って、それでせめて宮殿ぐらい修理しましょうよって進言するんですがね。