<道の後古波儾嬢女を神の如聞えしかど相枕枕く>で、道の後の古波儾嬢女(こはだおとめ)を神のように美しいと噂に聞いていたけれど、今は私と寝ていることよ、って謡うんです。クエスチョンマークひらめきましたか?応神天皇が側室に入れようとした。宴席にいた太子がその美しさを見て、「私にくれ」と言うた。「うん、あげる」と。何?神のように美しいと噂に聞いていた?
「見た」んでしょ?髪長媛を直接。「見た」んですよね?そう書いてあるんですよ、古事記も日本書紀も。何でこんな歌残るんですか?「噂に聞いていたけど、今は私と寝てる」。おかしいやないですか?「大矛盾」でしょ?次、もっとおかしいですよ。<道の後古波儾嬢女争はず寝しくをしぞ愛しみ思ふ>元々お父さんの所に来る予定だったからでしょうかね?
「争うことなく、抵抗することなく、私と寝てくれた。あーカワイ子ちゃん」って謡ってるんです。おかしいでしょ?だから、結局問題ここですよ。『古事記』入れ替えたんです。『日本書紀』も。だから、貰ったのはあくまでも「太子」だったんですよ。髪長媛を貰ったのは。じゃあ、『日本書紀』 の太子誰か?「菟道稚郎子」さんです。
だから、この記事を比較して、この歌もあわせていくとどうなるかというと、実は元々は「太子菟道稚郎子」が髪長媛を父・応神から貰ったというのが歴史史実だったんです。じゃあ、何でこんな歌が残ってるんだい?ということになりますね。そこで今までの文学者誰もわからなかった「古波儾嬢女」ちゃ誰ですか?これがどう考えても「髪長媛」のことなんですよ。髪長媛のことなんですよ。
それは間違いない。で、その時にこの「古波儾」って、こんな漢字書かれたかわかんなかったんですが、菟道稚郎子のお母さんどこでした?「宇治の京」、ほら?「木幡」村やないですか?ほら、「古波儾(木幡)嬢女」。つまり、「木幡」にいたお母さんの所に「宇治宮/許乃宮(古宮)」を建てた宇治天皇、そこの所に妃に来たから、髪長媛がまた「古波儾嬢女」なんでしょ?「木幡の嬢女」なんでしょ?
ほら、倭歌が解き明かす古代史、私の観点捨てたもんじゃないでしょう?だから、皇子、皇子ですよ、皇子大鷦鷯はその古波儾嬢女=髪長媛、最初は見てなかった。本当は弟、腹違いの弟、「菟道稚郎子の妃」だった。でも、それがあんまりに美しいと噂だった。それで宇治天皇が3年で死んじゃった。やったぁ、じゃあ俺が貰っちゃえと。ほら、貰うわけですよ。
噂に聞いていた古波儾嬢女と今、寝たぞと、やったぁ!って喜ぶ歌やないですか?ほら、『日本書紀』ここまで記録が残されてたんですよ。すごい事実でしょ?でも、私が書いたんじゃない、日本書紀。書かれてある通り読んだら、こうなっていく。『古事記』がなかったら、永遠にわかんなかったですね。『日本書紀』では太子皇子って、これだけ使い分けてあるのに、こっちの『古事記』には簡単に太子の大雀が貰った。だから、事実は単純に太子菟道稚郎子が貰った、髪長媛さんを。
だから、仁徳紀ではおかしなことに、この大鷦鷯天皇の時になると髪長媛は正式の皇后磐之媛でしたっけ?あれのずーっと下、「又妃」なんですよ。日本書紀見てください、もう一回。「又妃」ですよ?あれほど父ちゃんに直に頼んで「くれ」って言ったのが、正式の后じゃなくて「又妃」。ほら、日本書紀ここまで、後の人が読みゃあ、気付くやろうっていって書いてくれてるんですよ。ね?もう、これ見つけた時にね、本当にね、これ自分の本当に気狂ったかな?と思いましたけどね、一瞬ね。