だから、これが「難波高津宮」であろうと、こう思われるんですね。それでみなさんには、やっぱりちょっとね、眉に唾するような思いがあるんでしょうけども、実はこの地域、大変な所なんですよ。「椿市廃寺」(つばきいちはいじ)がある所なんです。「椿市廃寺」があるんです。で、この椿市廃寺の伽藍跡は大阪にある難波四天王寺の「四天王寺形式」なんですよね。
ということは、僕はいつも言うんですが、「廃寺」っておかしいでしょう?7世紀以後。だって、奈良時代なんかになったら、仏教は完全に「国の教え」なんですよ?「国教」なんですよ?仏教は。なんでこの福岡県、豊前国や筑前国辺り廃寺ばっかりあるんですか?なんで壊さないかんのですか?おかしいでしょ?もっと言います。「木材」が出ないんですよ、一片も。出るのは礎石と瓦ばかり。
これ愛知県の犬山城と同じ。木造建築は分解して運ぶことが出来ます。「移築」が出来ます。だから、豊前・筑前のお寺、廃寺は全部分解されて、向こうの奈良に運ばれちゃったんですよ。で、向こうで「再建」されるんです。どれかがそのお寺なんです。ということは、大阪の「難波四天王寺」は元々はこの「椿市廃寺」だったっち言うことでしょ?
じゃあ、これが本当の「難波四天王寺」じゃないですか?だから、僕は「椿市廃寺」を今やもう堂々と「難波四天王寺」って言ってるんです。元々のお寺だと。で、ここは今日ここに来られてる(*不明)さんという九州古代史の会の方がですね、ここにやっぱり万葉集から、ここに「八衢」(やちまた)がちゃんとあると。で、今の椿市小学校の門の所に説明板がありましてね。
で、そっちの行橋か何かの教育委員会が、「ここに昔、天の八衢があったよ」と言っています。したがって、ここ完全に「都跡」です。私以外の人が見つけ出しました。これ、「都跡」です。お寺もあるし、宮もあるし直接、そして八衢という立派なその通りの跡が残ってますしね。ここ、だから一時期の本当に大鷦鷯天皇の時代の「都」ですよ、ここ。これが偶然にも先に見つかってたんです、数年前に。
そして、今度は大鷦鷯は実はその太子菟道稚郎子、宇治天皇からその位を奪い取った、実は「仁徳」じゃなくて、「暴虐」の天皇だということに段々気が付いてくるわけなんですね。で、これからしばらくお話になっちゃいますけども、まず先にその仁徳天皇・宇治天皇さんがどこの宮を建てられたかということを突き詰めていきまして、先程のページにありましたその海人が苞苴を持って右往左往したという話がありましたよね?
その間に魚腐ってしまっちゃったと。で、片方の「難波高津宮」、つまり大鷦鷯の宮がわかったわけです。じゃあ、そことじゃあ「菟道/宇治」へ持って行け、宇治へ持って行けでしょ?ようするにこっちに持って行けでしょ?で、こっちの菟道稚郎子はまた大鷦鷯の所へ持って行け。それで海人が行き来する内に魚が腐ったっち言うんでしょ?じゃあ、難波高津宮からそんなに遠くないです。
多分これは5kmから10kmの範囲だろうと。ようするに人間の足で往復するんですから、魚が腐るの夏の暑い時でも4、5時間。どんなに冷やしても4、5時間。4、5時間歩いてる内に腐っちゃう。そういう距離にあるんだとすると、ってことでまた香春の地に戻るしかなかったんですよ。その難波高津宮、入覚・行橋からちょっと味見峠か何かを越えれば、もうそこ香春です。
じゃあ、また香春の中に「宇治の京」を求めなきゃいけないということになったんですね。で、その「宇治の京」求めなきゃいけない時に、神功皇后紀で見つけたように菟道は「田河道」ですから、田河道で香春の辺りと言ったら、どこら辺かと言ったら、やっぱり「鏡山」の近くだろうということになったわけですね。そして、また宮原盆地に行くことなったんですよ。
そして、今さっき2ページにあった歌がありましたね?で、あの歌をさっき岩波体系本で「あきののの」って読みましたでしょ?「秋の野」って読んでありましたね。