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2017年3月31日

#004 「真実の仁徳天皇」福永晋三 [1時間15分~1時間20分]

で、柿本人麻呂が実はこの御所ヶ谷神籠石のこの(*不明)跡の所に立ってですね、万葉集29番歌謡ったらしいんですよ。<玉手次畝火の山の橿原の日知の宮ゆ阿礼座しし神の尽樛の木の弥継ぎ嗣ぎに 天の下知らしめしける~>云々と謡いましてね、最後にこういう風にぼんやりとして、今はこれだけが残ってるち言うんですよね。で、<~百磯城の大宮処見れば淋しも>という歌が29番歌にあります。


そしてやはり反歌が詠まれましてね、それで大宮人にまたも(*不明)という悲しい歌があるんですが、それがどうもやっぱりこの「忍熊王」、これですね。<楽浪の思賀の辛碕幸くあれど大宮人の船待ちかねつ> (30)なんていう歌があるんですがね。


これもやっぱり<楽浪の思賀の辛碕~>とか、<ささなみの比良の大わだ~>とかですね、それからこの御所ヶ谷神籠石の頂上には「景行天皇社/景行社」があります、本当に。で、この景行天皇がここを宮とされたので、福岡県「京都郡」(みやこぐん)があるわけです。「京都郡」と書いて。


で、それ日本書紀には京都の「京」という字が書いてあるんですが、日本書紀を編集した岩波大系本なんかではやっぱり大和、東の大和が大和王朝やから、こっちの「京」は当然「行宮」(あんぐう)だと、だから「かりみや」という訓読するんですね。もう、無茶苦茶ですね。だから、景行天皇本当にこの宮に住んでいらっしゃったらしいんです。その景行から数えて景行-成務-仲哀-忍熊王です。


その忍熊王を東からやって来た神功皇后、倒すわけです。そして、私がこの土地で得た伝承でも神功皇后の軍隊がこれをとにかく滅ぼしたと、もう一生懸命壊しぬいたんだと。ところが、ここだけが頑丈で壊せなかったっていう伝承が残ってるんですね。京都郡、今の行橋市、あります。これ、有名な遺跡ですよね。行かれてください。その「表現」見てください。<~百磯城の~>


「たくさんの岩の城」って書いてある。この通りでしょ?よく『百人一首』で聞きますよね?「百磯城の大宮」って。「百磯城」って福岡県だったら初めてわかりますよ?本当に古代「百磯城」ですよ。「たくさんの石で築かれた城」です。「百磯城の大宮」。<~処見れば淋しも>っち言うんです。だから、これでも「宇治」確認しました。「百磯城の大宮」を確認しました。


じゃあ、菟道稚郎子さんの「宇治の京」も「御所ヶ谷神籠石」の近くだろうと。こういう風に推測したわけなんですね。そして、これもですね、ひょんなことからですね、実はこの後の、今までみなさんが仁徳天皇と思われてきた大鷦鷯尊、彼の「難波高津宮」の方が先に見つかってしまっちゃったんです。で、それがですね、そこの地図に書いてあります御所ヶ谷神籠石の下の地図、行橋市入覚という所に「五社八幡神社」というのがありましてね。


(*省略)そこの所に五社八幡の写真がこう出ておりますね、白黒ですがね。(*省略)はい、そういったことで、これが回廊付きのですね、田舎のお宮さんって言ったら失礼ですけども、にふさわしくない立派なお宮さんなんですね。そして、大事なことはですね、この拝殿の一番左奥の所に小さな社伝が書いてありまして、「なぜか仁徳天皇の聖帝伝説がこの地に伝わる」という由緒書きがあったんですよ…


「やったぁ!」って思ったんです。「あぁ、そうか。ここに仁徳さん…」で、私もその時馬鹿でしたから、こっちだと思ったんですよ。大鷦鷯天皇だと思ってたんです。あ、これが大鷦鷯天皇の「難波高津宮」かと。もう、この時は小躍りして喜んでたんですね。


で、その後に、だから仁徳天皇さん、仁徳天皇紀、神功紀の後に応神紀やって、仁徳紀やりまして、仁徳紀読んでいくと「あれ?大鷦鷯さんはどうも仁徳じゃなさそうだ。この菟道稚郎子さんが即位して宇治天皇になられて、そしてあの聖帝の伝説のことをやられて、それで本当の仁徳さんじゃないか?」ということに思い立った時に、これは「敵/仇」(かたき)の方の宮だと。