ページ

2017年3月29日

#004 「真実の仁徳天皇」福永晋三 [1時間5分~1時間10分]

じゃあ、「宇治天皇」という呼称がたった1か所残っていて、『播磨国風土記』。そして「兎道乃宮子」という表記がやはりこの『万葉集』7番歌にたった1か所だけど残ってるんです、厳然と。だから、これは『日本書紀』が成立した後に「宇治天皇」と「兎道乃宮子」というのは消される運命にあったんですが、2か所だけ残った。これが私にはありがたかった。


だから、ここでひょっとしたら、これは宇治天皇さんの「宇治の京」というのが現実に、日本古代史には存在したんだと。そして、直感として万葉集の2番歌の天皇天香具山に登りて望國し給ひし時の歌というのは、これまた万葉集2番歌にある時、その天皇さんはこの仁徳紀に出てくる「聖帝伝説」、ようするに3年間、民のかまどの煙が上がらない3年間、税取られなかった天皇さん、この天皇さんは通説の「大鷦鷯」ではなくて、「菟道稚郎子」さん、即位して「宇治天皇」さんの業績であろうと。


もう、この直感が成り立ったわけです。あ、これひょっとして、日本書紀、古事記から消されかけた宇治天皇さんの実績であるし、そしてこれは平安朝の皇室が尊んだ、いわゆる「王道」ですね。民を非常に愛しむ、憐れんだ、そういう非常に徳の高い天皇さんとして、平安朝の皇室、天皇家も尊敬したし、今の今上陛下、昭和天皇、こういう方々もこの仁徳さん、ひょっとしたら私の言う「真実の仁徳」さん、「宇治天皇」さんのことを慕われているんじゃないかなと思ったわけです。


みなさんにクイズです。今上陛下、御名前は?昭和天皇さん、御名前は?皇太子、御名前は?ほら、みんな「仁」の字が入りますでしょう。この仁徳さん、みんな慕ってるんです。平安朝以来。だって、そらそうですよ。民を愛おしんだ天皇さんですから。そのことが、実は仁徳紀の「聖帝伝説」には長々と書かれているんですよね。


で、それを我々は日本書紀で作り替えられて宇治天皇さんの「即位」消されて、「宇治の京」消されて、そして、聖帝伝説という形で「大鷦鷯天皇」の業績であるかのように我々は思い込まされ、更にはあの大阪の方にあります、伝仁徳陵という形で、あーんなドデカい古墳を人民に建ててもらった天皇さんかのように思い込まされてきましたでしょう?みんな「ぺケ」だったわけです。


あら「大鷦鷯」さんじゃなかったんです。「菟道稚郎子」さんだった。で、そういうのがわかってきたわけなんですね。それじゃあ、「宇治の京」が存在した、実在した、宇治天皇も「即位」されていた。じゃあ、その「宇治の京」はどこにあるのか?というのがやっぱり(*省略)地名研究会のみなさんには非常に大事になりますでしょうね。


で、私は神功皇后紀をやってる時から、「兎道/宇治」というのはですね、古代官道「田河道」であろうってことをずーっと言い続けてきたわけです。で、「田河道」というのはどっからどこまでか?というと、「大宰府」から「菟狭/宇佐八幡」までです。先程神武天皇紀を出しましたように、「菟狭/宇佐」というのは、あるいは万葉仮名で書いてありますが、この宇治天皇さんの「菟道」この「菟」ですね?


これに「狭」という字を書いて「菟狭」と古事記、日本書紀には書いてありますよね?神武天皇紀の所ではね。その「菟狭」に至る「道」、略して「菟道」。私、頭悪い人間ですから、この程度の発想しか出来ないわけです。じゃあ、「菟道/宇治」は「田河道」だろうと。また比定しましたよ?京都の「宇治」は、ここにいた人々たちが東の大和に移って、山城国に移った人たちが自分たちの昔の地名「菟道/宇治」を付けただけ。だから、あの「宇治川」の畔にはなーんも遺跡がないわけです。