<~更に返りて、他の鮮魚を取りて獻る。讓りたまふこと前日の如し。鮮魚亦鯘れぬ。海人、屢還るに苦しみて、乃ち鮮魚を棄て哭く。故、諺に曰はく、「海人なれや、己が物に因りて泣く。」と。其れ是の縁なり。>と、まぁ、こういう風に書いてございますね。で、これも仁徳天皇、多分みなさんは『日本書紀』に書いてある通り、大鷦鷯尊・大鷦鷯天皇がまぁ、仁徳天皇であると思ってらっしゃいますよね?
戦前でしっかりと歴史を学ばれた方、戦後に歴史を学ばれた方、そう思ってらっしゃいますね?それが普通です。ところが、ずっと神功皇后紀以来、『日本書紀』を読んできた私には、「宮室を興てて居します。」というのは、これは「天皇位即位」をあらわすんです。他の用例はみんなそうなんです。「宮室を興てて菟道に居します。」といったら、これは「天皇」さんなんです。
で、そのあたりみなさんよくご存じの大鷦鷯と皇位を譲り合った。何年ですか?「3年」です。3年です。3年もの間、皇位を譲り合ったっち言うんです。その間、空位だったというわけです。ところが先程の『万葉集』戻りましょ。その天香山から国見をして、<~國原は煙立ち立つ海原は鷗立ち立つ~>というその聖帝伝説、これは古事記の方でぴったし「3年」です。
で、私のように頭の悪い人間は3年と3年でぴったしじゃないかと。じゃあ、この聖帝伝説、民のかまどから煙がのぼらないのを見て、3年税をおやめになったのはそれは「菟道稚郎子」さんやないかと。
少なくとも『日本書紀』に書いてあるように、皇位を譲り合ったんじゃなくて、3年間「在位」されたんだろうと、こういう風に思ったわけなんですね。ここからが本当の歴史のスタートになるわけなんですね。
そうしました時にですね、そこのページに書いてあるだけでも、今日みなさん随分収穫あると思いますよ。1ページの下、見てください。そしたらその菟道稚郎子さんが、「即位」したと思われる形跡があるんですね。下の段、『播磨国風土記』です。で、そこに時代書いてありますね。<上筥岡・下筥岡・魚戸津(なへつ)・朸田(あふこだ)
宇治天皇のみ世~>はい、そこだけ印付けてください。
「宇治天皇」ってございますでしょ?これはもう全古典中、ここたった「1か所」です。「宇治天皇」さん。で、「宇治天皇」さんちゃ誰か?と言ったら、岩波の古典体系でも「菟道稚郎子」をいうか、って言うんですよね?で、岩波大系本の頭注が面白いんですよ。で、後の話は別にどうでもよろしいです。とにかく、「宇治天皇のみ世」にこんな話があったというのが、『播磨国風土記』で「宇治天皇」があるわけですね。
で、原文終わりから3行目、<宇治天皇之世>と書いてあるわけです。で、頭注はこう書いてあります。<応神天皇の皇太子菟道稚郎子皇子。記紀には、帝位を御兄(仁徳天皇)~>通説はほら、大鷦鷯が仁徳さんですから、<~(仁徳天皇)に譲って即位せられなかったとあるが、ここに天皇とあるのは、日本書紀によって天皇の御歴代が確定する以前の称によったものである。天皇とするからその「み世」という言い方が出来るのである。>
変な解説でしょ?日本書紀成立以前は菟道稚郎子さんは「宇治天皇」であったっち言うことでしょ?だから、通説の学者も言ってるわけですよ。3年間。皇位譲り合ったんじゃないと。「宇治天皇」さんと呼ばれていたんだろうっち言うんです。で、私はその通りで良いだろうと思ったわけです。それがその聖帝伝説につながるわけですよね。
そしてですね、今日を中心になります歌が、その万葉集の2番歌の次にですね、この7番歌です。で、これがですね、額田王歌となってて、未詳とあるんですね。で、みなさんにそこ原文も持って来ました。で、最初に<金野乃~>という字が書いてあるんですが、これが今までの万葉集の訓読では次のカッコ書きです。「秋の野の」この「金野乃」を「秋の野の」って言うんです。
<金野乃美草苅葺屋杼礼里之兎道乃宮子~>(秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の京~)原文と訓読両方見てください。「兎道乃宮子/宇治の京」、<~能借五百礒所念>(~の仮廬し思ほゆ)とあるわけなんですよ。