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2017年1月23日

#003 「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三 [1時間10分~1時間15分]

これを私は、これが魏志倭人伝にいう倭国の乱の始まりだろうって、この国で初めて言ったんです。そらそうでしょ、自分の土地の皇子が殺されたんですよ?後継ぎが。香春の土地の娘との間に生まれた、神武の血を引くことは引きますけど、その皇子に殺されたから、それでもう卑弥呼さんの時代にこれ仲悪くなるわけでしょう?この後も書いてありますけどね、桓霊の間、倭国大乱、それから倭国が乱れたと梁書にもあります。これがピッタリ一致するわけです。


もう一回行きましょ、121年、神武即位です。それから十数年して、手研耳命が3年間で殺されちゃいます。その神八井耳命(かむやいみみのみこと)と呼ばれる人物が亡くなった後に、抑える人物がいなくなったのか、倭国の乱が起きたとするとピッタリ合う、年数が合うんですね。そしてこの神武即位121年から、これも推定ですが崇神崩御198年と考えた時に、この間が78年間です。


そうしますと魏志倭人伝の<其の国本亦男子を以って王と為し、とどまること七八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。>ドンピシャでしょ?だから、陳寿さんも嘘書いてないです。78年間と780年。男王が就いたんです。これが倭国の乱です。それであんまり戦争が続くんで、一女子を立てて共立したんでしょ?これ、卑弥呼さんだと。


それで卑弥呼さんの即位年をその中国史と合わせて、199年または200年としたんです。これは魏志韓伝・倭人伝を綿密に追及した時に、199または200と出ました。そしたら日本書紀の神功皇后紀の中に、実は卑弥呼さんと台与/臺與(とよ)の記事が出てきますよね?その神功皇后の即位というのが、どういうわけか120年こう前に持ってこられていまして、この神功さんの即位年というのが実は200年なんです。


だから、これは元を正せば、卑弥呼さんの共立は西暦200年のことではなかったか?と。恐ろしいことに、日本書紀と中国史が一致したんです。これやっぱり事実を追求したから一致したんでしょうね。私、恣意的には特にやっておりません。そして大事なことは、ここの次230年です。これは三国志の呉誌の所にありますね。<将軍衛温(えいおん)・諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州(推定倭国です。)および亶州(=推定東鯷国です。)を求む>と。


三国志呉書孫権伝黄竜2年の出来事です。さっき言った5000人の兵が逃げ出したのがこの時です。これでこの将軍たち、かわいそうなことに処刑されちゃうんですよ。5000人脱走しましたから。そしてこの国が東鯷国と結び始めたから、多分その情報が伝わったんでしょう。それであわてふためいた卑弥呼さんが238年に魏の帯方郡に大夫難升米等を遣わすと。この事実に至るんじゃないですかね?だから、これで魏と倭国が手をつなぎますね。


それに対してもう既に呉の国は東鯷国とどうもつながりがあるらしい。まさしく、古代史の十字路です。鏡の分布とも一致します。だから、魏にとっても大変でしょ?そんな東鯷国が韓半島の東の方から攻められて、呉の国、南から攻められて、挟まれたら魏アウトです。だから、魏はその間にある倭国と手を結ぶことによって、とにかく東鯷国防いでもらわな、後は呉と戦うだけですから、東鯷国を防いでもらったら、何とかその援軍が来なければ、魏も成り立つわけですよね。


だから、これは政治的にもものすごくリーズナブルです。リーズナブルです。まぁ、そんなことでこういうことを考えとるわけですね。その間のことについては、後はこれは『三国志』に詳しいわけでありますね。もうこの後ずーっと見りゃあわかります。しかし、台与さんの時代もずーっと乱れます。臺與さんですね。やっぱり臺與さんと、さっき言った「臺」の字を「と」と読みましたよね?


それで魏志倭人伝もそうだし、それから謝承の後漢書もそうですが、特に「臺」與とか邪馬「臺」國と書いてあれば、当然あれも「いちよ」さんじゃなくて、「とよ」さんですよね?そうした時に、この福岡県の近くには豊姫さんがいっぱいいますでしょ?