もうこれで成り立ちますよね?豊姫さんね、はい。さぁ、そこで後は最後にですね、369年、邪馬台国は神功天皇さんに滅ぼされたと。まぁ、こういう風になっていくわけなんでございますね。
[古川氏:
ちょっといいですか?その「臺與」とですね、そこ「壹與」が出てくるんですが、表記が違うのは何で…?]
表記が違うのは、一応これが今残されている三国志の原本に基づいているからです。三国志の今残されている宋の時代の版本はみんな「壹」って書いてあります。ええ。それに対して、これはやっぱり謝承の後漢書はやっぱり「臺與」と書いてあるはずだという…
[古川氏:
このバックの草書体の問題が絡んでるんと思ったんで]
いやいや、ちょうどこの前古川さんにお聞きしましたが、この会のある方が、草書に基づく漢字の、中国史に出てくる倭国関係の人々の名前を考察したという本が出るそうです。私も楽しみにしています。だからその「臺」と「壹」という旧字はですね、草書体で書いた時にはほとんど同じなんですよ。中国は唐の時代は草書が最も流行った時代なんです。だから、その都度その都度、楷書に戻す時に誰かが間違えたという可能性があるんですね。
それは中国は中国においても宋の時代の北宋の時代の版本になる時に「臺」の字が「壹」に変わったというおそれはあるんです。その間違った結果を古田さんは3世紀は邪馬「壹」国だったという無茶苦茶な論に飛躍させちゃったわけです。残念ながら原書は全部「臺」だったらしいというのが、多分、こちらの会で出される本でも証明されると思います。はい、そういう面白さに満ちとりますが、前半はこれくらいでよろしいでしょうかね?
とにかくこの後、東鯷国が三角縁神獣鏡の国にかわって、そこから出た神功さんが卑弥呼さんの国の末裔、すなわち熊襲を滅ぼして、武力統一をして、統一倭国が出来たのが369年ではないか?とするのが私の仮説です。後半の『吉山旧記』につなげましょう、休憩します。
[古川氏:
休憩の前に、もうこれで質問を、この部分について受けた方が]
じゃあ、この、ここまでの質問を受け付けたいと思います。一応、前半でやっておいたほうがいいでしょう、はい。
[質問者
:
369年、ここの所の神功天皇というのはどこから?」
ええ、この後説明いたしますのでお待ちください。
[古川氏:
これ、原本はえっと…紹興(しょうこう)本、紹煕(しょうき)本のどちら?]
紹煕本です。
[古川氏:
紹煕本ですね。あぁ、古田先生が使った方]
そうです、そうです。紹煕本でも紹興本でも(*不明)しか書いてありません、はい。そこでは残念ながら邪馬「壹」国とか「壹」與とか書いてございます。旧字体で。
[質問者
:
孫権伝ですけど、三国志の呉書、これは何か市販されてる本か何かありますかね?
あぁ、あの今出ております岩波の三国志でも何でもいいですから、文庫本で十分(*不明)、はい。
[質問者
:
それとあと、ここに書いてある、<夷州および亶州を求む>、の後はどういう説明になってるんですか?]
あ、原本のとこですか?えっと<~求む>はどこでしたっけ?今このページですか?
[質問者
:
230年]
230年。はい、じゃあちょっと戻りますね。えーっと230年ですね、はい。<将軍衛温・諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州および亶州を求む」、ですね。これ三国志呉書孫権伝黄竜2年とあります。したがって、三国志が全部載っかってる本だったら、必ずこれが出てまいります。三国志で全文が載っかっている文庫本って日本にありましたっけ?ちくま文庫が出してましたかね?
ちくま文庫にあれば、それが一番手に入りやすい書籍ですね。それが手に入らなかったら図書館で、出来ましたら百衲(ひゃくのう)本・正史をご覧いただければ間違いないですが。で、その後ですか?
[質問者
:
はい。この<~求む>の後は、どっか書いてある(*不明)?]
いや、<~求む>これです。
[質問者
:
それはそれで終わり、文章としては終わりなんですか?]
いや、もうこの後に戻ってきてですね、兵士が逃げたということで、この将軍が処刑されたいうの書いてあります。これはだから大事な部分だけ抜き出しました、はい。こういう証拠があちこち残ってるんですよ、中国史その物にも。魏志倭人伝だけじゃなくて、呉誌までも(*不明)ですね。ちなみに言いますと、唐の時代には魏の後を受けた王朝ということで、つまり鮮卑族ですかね?の人々は三国志と呼んでないですね。魏書、魏志って呼んでるんですね。