お佐賀の大室屋というあの神武歌謡と吉野ケ里遺跡を初めてくっつけたのも私です。多分これが事実だろうと思われます。107年、倭国王帥升(すいしょう)が後漢の安帝に生口160人を献ず。そこに書きました、これも私の神功皇后紀を読む会に来てくださってた方の意見だったんですが、あの奴隷は食肉用だったろうと。中国人はよく人を喰います。で、倭人も人を喰います。これは中国の梁書にですね、この北部九州にあった王国の人々はですね、今の沖縄まで出かけまして、歯真っ白で肌の黒い人々を狩りして捕って食べたという記録が残っておりますね。
だから、この北部九州にいた人々も中国系の人々だったかも知れませんね。人間喰うんです。カニバリズムです。だから、この160人の子孫もおりません。おりません、中国に。残念ながら。こういったこともようやく抜き出してきました。そして、みなさんは広島県の瀬戸内海に生口島(いくちじま)があるってのご存知ですか?この字書いた。ところが、この人たち、あそこに何か放し飼いというか、閉じ込められたみたいですよ。えぇ、探してみてください。
はい、それでこの頃から韓半島、倭奴国が乱れて、以後漢への遣使が途絶する、なんですよね。114年、これは私が割り出したやつですが、磐余彦、神武ですね、冬10月に諸兄、諸皇子らと第一次東征を開始。神武東征、実は二次あったというのが、私の方の説です。11月、岡水門(おかのみなと)に至り、軍備を整えたと。115年春3月、遠賀湾遡って、先程の遠賀湾ですね、でもしかし、負けちゃいます。
そして、そしてですよ、帰ってきたのが、博多湾住吉神社近くの鎌倉時代まで存在した草香津に帰還します。これが草香です。5月に五瀬命死去しますね。竈山に葬ったとあって、今、和歌山県の竈山になってますが、他でもない宝満山に竈門山、神社、ちゃんとあるやないですか?竈門神社さん。あそこに葬られた。で、竈山の高千穂の宮において3年間再軍備を果たします。118年春2月に第二次東征を開始します。
そして、「日を背にして戦う神策」を実行に移します。そして速吸門(はやすいのと)=関門海峡に至り、珍彦(うずひこ)を道案内とする。そして、菟狹(宇佐)に至り、一柱騰宮(ひとつはしらあがりのみや)に入ったと。これまで大丈夫ですよね。そして、次があの求菩提山縁起から抜き出した事実ですね。数ヵ月、狭野嶽に通い、大天狗豊前坊及び八咫烏、だから八咫烏の頭に日本書紀は「頭/あたま」の字が付いてますが、この「頭」の字が大天狗を指すんだったんですね。
ヘッド(頭)andヤタガラス(八咫烏)ですかね。これもやっとわかりました。「ヘッド(&)ヤタガラス」=「頭八咫烏」です。大天狗と八咫烏ですから。一族と同盟を結ぶと。この間、吉野の国樔(くず)部らを巡撫したと。これも初めて出しました。吉野の国樔、そこに(玖珠)って書いてありますでしょ?大分の玖珠です、玖珠郡です。あそこにいた連中が吉野の国樔(玖珠)です。で、6月天皇獨り、皇子手研耳命(たぎしみみのみこと)と軍を帥(ひき)ゐて進む。
既にして皇師(みいくさ)中洲に趣かんと欲す。こういうことが書いてあるんですね。これが日本書紀に書いてありましたかね。7月、頭八咫烏の案内で英彦山を下る。8月、菟田縣の血戦に勝つ。9月、天香山攻略にかかる。10月、赤銅の八十梟帥(やそたける)を国見丘に破る。11月、英彦山水系を南下して、嘉麻川水系に入る。11月に皇師が磯城彦を攻める。これが立岩の戦いです。
立岩丘陵に、この磯城彦を攻めようとして、神武は川と海の混ざる広大な沼、かつての古遠賀湾ですよね、それを徒歩で渡り、片島、これがあの射手引神社社伝に書いてあります。飯塚市に上陸。遂に熊野の神邑、熊野神社の辺りですね、を攻撃し、磯城彦を滅ぼす。天磐盾(あまのいわたて)、今の岩立神社に登り、東征成就を天祖に祈願する。12月、長髄彦との決戦に臨む。とういことで、この場所が他でもない、福岡県直方市の頓野(とんの)という場所です。