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2017年1月18日

#003 「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三 [55分~1時間]



これはざっーと追いかけます。何せ後半の方が大事ですから。それでは、もうちょっとお付き合いください。じゃあ、今までの写真にありましたようにこれを日本書紀、それから福岡県のあちこち伝わる射手引神社社伝、それから中国の史書、そういうのを全部合わせていった時に、およそこういう年表が成り立つんじゃないかということで、これは私の拙論の「神武は筑豊に東征した」の中で最後に付録としてまとめた物です。


紀元前14年、ニギハヤヒが豐葦原瑞穗國の笠置山に降臨。ニニギノミコトが、これが日向(ひむか)のクシフル岳に降臨となっておりますね。こちらの方は「天孫降臨」として、後者がよく知られておりますのに対して、失われた伝承としてニギハヤヒの方を私が「天神降臨」て名付けたんです。天神様というのは本来ニギハヤヒのはずなんです。だから、天満宮も太宰府天満宮も本来はニギハヤヒさんが祀られてるはずなんです。菅原道真公、ずーっと後ですから。


彼は(*不明)天神様じゃないです。そこでこれは私の拙論から採りましたけど、「あまみつやまと/そらみつやまと」ということで、これを私は天満倭国(てんまんわこく)と呼んでおります。で、中国史による倭奴国(いぬこく)が成立したんだと。紀元前14年です。これは先程の天照宮社伝から採り出しました。ニギハヤヒが古遠賀湾沿岸部を領有。中洲(なかつくに)皇都を建設。これがどういうわけか宝満山、宝満山の竈門(かまど)神社の社伝にも残されておりますよね?


あそこから神武さんが中洲に攻めて行ったってことが、ちゃんとあちらの社記に残っておりますね。それと一致したわけです。この土地、古遠賀湾沿いは天物部八十氏が筑豊の山や島を領有して、これが漢書に書かれた<山島に居し、分かれて百余国を為す>という伝承になったんだろうと思います。「山島」というのは「山がちの島」じゃありません。もうみなさん、ご存知の通り、神籠石、山か島です。だからこれ単純に「山and島」です。昔の人はそこが一番守りやすかった。


だからこれが中世に至るまで、城は山城か平城(ひらじろ)ですよね?平城は「濠」をめぐらすことです。要するに古代の島を再現するんです、平地に。だから中世の城はこのまま弥生時代、あるいはその、まぁ弥生時代でいいんですかね、その山と島に居住したという、その城の構造をそのまま使って、中世の城がなんとこの神籠石の上に建っているという例もありますよね?笠置山の上にも中世の城が建ってます。


じゃあ、その中世の城の下は何か?多分、ニギハヤヒの居住の跡が出てくるはずなんですが、これは考古学のやり口で絶対に下は掘らないですね。大宰府の下を掘らないと同じです。大宰府はもう何層にも分かれていることはもうわかってるんですよ?でもしかし、その古層は掘らないんです。もうそれが考古学界の「掟」ですから。古い物が出てきたら困るんです。そういったことになっておりますね。ニニギノミコトは博多湾領有と。


それから、これもみなさんご存知ですよね。紀元57年、倭奴国王(いぬこくおう)です。漢の光武帝に遣使した。この時、金印を貰ってきますがね、これを旧事本紀からいくとニギハヤヒの長男に天香語山命(あまのかごやまのみこと)というのがいます。彼がこの時の 倭奴国王だったのかな?という、これはただの推定です。この紀元後70年、これは私が日本で初めて言ったんですが、磐余彦(いわれひこ)、神武が誕生したと。


大体この辺りだろうと思っております。それから後83年、これは日本書紀の景行紀から割り出しました。<忍坂(おさか)の大室屋に人多(さは)に入り居りとも~>云々というのがありますね、最後、<~撃ちてし止まむ>という戦中にはよく詠われた歌なんですが、この 忍坂の大室屋攻撃というのが、お父さんのウガヤフキアエズノミコトの時代にあったろうかと思われます。陥落します。この時、神武も参加してたでしょうね。


これ「吉野ヶ里遺跡」です。これの発見についても色々とね、謂れがありますけど、長くなりますのでやめときますが、「忍坂」のとこだけ注目してください。「佐賀」です。古くは「佐嘉郡」(さかのこおり)ですから、これが「忍坂」の「佐嘉」ですね。あの吉野ヶ里の、あの高い楼閣が「お佐賀の大室屋」だったと思われますね。