それを熊野の神邑(みわむら)と日本書紀は書いてあります。これは実はやっつけられた側です。ここにこの巨石が飾ってありましてね。この熊野神社のすぐ南の所まで、今、新飯塚駅ですが、そこまでが海入り込んでました。さっきの2,3世紀の倭国図と同じように。ここはちょっと高台、島ですね。ここに熊野の邑があったんです、この熊野の邑を結局神武さんがやっつけたと。そうしますとその熊野神社の社伝にですね、これはもうみなさん神武ではよく知られてるように近畿の熊野をすぐ思い出されるでしょ?
熊野古道とか。あっちの熊野じゃなかったんですよ、飯塚の熊野だったんです。ここに神武さん上陸するんです。何せ間は海ですから。ここにも出てくるんですがね、神武さんが東征の砌(みぎ)りにここまでやって来たら、雷雨がにわかに起こって云々なんてのが書いてあるんですね。ここに神武天皇御東征の砌りというのがありますね。この通りになってしまうんですが、はい、こういったことで福岡、特に筑豊の各地にはですね、神武天皇の伝承というのが非常に多いわけなんですね。
とにかくこの岩の上、岩はもう一つ先になりますがね、どうやら神武天皇がここに寄ったと。この熊野神社さんの500メートルもっと高い所に、実は立岩神社というのがあります。その岩の上に登って神武さんは東征の成就の祈願をなさったと、その射手引神社社伝には書いてございますね。こんな物もちゃんと福岡の各地をまわりますとね、今は古川さんに頼まれて豊前の九州王朝ガイドを書いとりますが、その中にこれ出しておきますので、後ほどまたカーナビで行ってみて下さい。
これは立岩遺跡、有名な所です。だからここに葬られている一族こそ、この最後の末裔が、神武さんに滅ぼされたわけです。これは先程出てきましたアマテラスですね。ニギハヤヒに仕えた例のタヂカラオノミコト(手力男神/手力雄神)と呼ばれる一族がですね、ここの王様だったらしいんです。だからこれはそのタヂカラオノミコト自身であるとは思えないですが、タヂカラオノミコトの何代目かの子孫でしょうね。その子孫がこのゴホウラの腕輪を着けてるわけです。
ゴホウラの。これ有名ですよね?この立岩にちゃんと神武が立ち寄ったというのが射手引神社社伝にあるんです。これ先程言いましたように昭和9年発行でしたでしょ?『鞍手郡誌』は。立岩遺跡がこういうのが発掘されたのはもうこれは昭和32年以降です。つまり、発掘が「後」なんですよ、神社誌よりも。神社誌では簡単に神武はここに立ち寄ったと書いてる。その立ち寄った土地にこの遺跡が現れたんです。
ということは社伝は昔の戦いをちゃんと記録してたということでしょ?立岩から何も出なかったらわかんなかったですよ、これが証明してるわけです。だからこの立岩遺跡からは前漢式鏡が出ます。後漢式鏡出ない。これも写真でもう終わりになりますが、これは撃鼓神社にあります神功さん関係の伝承地です。実はこの撃鼓神社という名前自体がですね、神武天皇が最後の決戦、長髄彦ですか、の軍と直接対峙するために、鼓を鳴らして進撃をした場所だという伝承が伝わってるんですね。
今の佐伯宮司さんは「いや、そんなことはない」と、この宮は神功さん以来だっていうことになってるんですがね、実は本当は神武さんの時なんです。その同じ土地で神功さんが乳飲み子の応神抱えて、ここで乳を与えたというんで、「乳の池」という伝承が、またここでも神武さんと神功さんが重なるわけなんです。それで私はこういう年表を作ったわけなんですがね。