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2017年1月12日

#003 「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三 [35分~40分]

昔からこの山には樫の木がいっぱい生えとるから、だから『樫葉山』って名前付けたんだって。もう私は「しめた!」と思ってね、そこの冊子だけ持って帰って、それから翌年行ってから初めて紹介しましたけどね。「実はここ神武さんがお宮を建てた橿原宮らしいんですよ」って言ったら、もうまた宮司さん目パチクリしてましたね。さぁ、そしてその神武さんは亡くなった時に畝傍の東北陵におさめられたって書いてありますでしょう?


その畝傍の東北、まさしく現地の一ノ岳の東北には「おほきんさん」と地元の人が呼んでる墓があるんですよ。これ一応今は河内王の墓ということになっておりますけどね、地元の人ではね。ところが、明治の27年でしたか、元宮内庁の前身にあたるお役所から役人がやって来て、ここに古代の天皇家に関わりのある河内の王が葬られているらしいからと言って、現地調査に来たらしいんです。ところがね、このまわりよーく見て下さい。


まわりに普通の人のお墓があるんですよ。それでその旧宮内庁から派遣された役人はですね、一般の人が墓を立てているここに、来なかったというんです、調査に。村人は丁寧に掃除をして待っていたらしいんですよ、一日中。来なかったと。結局、この下にあるですね、巨石の所を案内されて「うん。じゃあ、これが河内王陵じゃ」ということで今、香春にある河内王陵ってのは地元の人に言わせりゃ、簡単に言えば「偽物だ」と。


今、郷土史会の会長さんをなさっている柳井秀清さんという、私をずーっと十数年、香春を案内してくださってる方もですね、「私が小っちゃい時に、この石の上から飛び降りて遊びよった」と。それが今の参考地の河内王陵なんですよ。これこそが、「おほきんさん」の「おほきん」って名前わかりますでしょ?九州のみなさん。「大王」ですよ、大王。大王のことを我々万葉集では「おおきみ」と読むんです。これ九州弁でしょ?しかも敬称付きですよ、「大王様」(おほきんさん)


中国の始皇帝陵と同じで固有名詞なし。だからこれが初代のおほきんさん(大王様)、でしょ?そうするとこれが私が日本書紀から読み解いたこれ、神武陵であろうと。もう一回行きます。橿原宮は私が推定した畝尾山、香春一ノ岳の東南です。そして墓は畝尾山の東北。だから、現地で「宮」と「墓」の2つが一致するんですよ、日本書紀通り。これ前の石碑傾いてますね、2年前に真っすぐ立て直されました、今行ったら真っすぐです。


さぁ、今度は神功さん関係です。これが私が最初にその柳井さんという方と出会った場所ですね、懐かしの地です。「鏡乃池」です。神功さんがここで、顔を映して化粧直されたか知りませんけど、身繕いされたんで鏡乃池と呼ばれとりますね。最初、案内に従って入って行ったんです、車で。そしたらある民家の庭に出てしまった。「あぁ、間違うた」と思って引き返そうとしたら、柳井さんがちょうどいらっしゃって、玄関から出てきて、「鏡乃池見に来らっしゃったとでしょ?ここでよかとですよ」ってな感じで案内してもらった。これが始まりだったんですよ。


それで「我々はその神功さん調べに来たんだ」ってことを言ったら、「じゃあ、香春のどっか他のとこをまわりまっしぇんか?」って言われてまわったのが、さっきの「おほきんさん」の墓ですよ。もう私それ見た時、唖然としまして「何でこんな所に弥生の円墳があるんじゃ?」と。「しかも名前もおほきんさん?一体誰が眠ってるの?」ってな感じで。もうそれから十数年してやっと書き上げたわけですがね。


ほら、ここでまた「おほきんさん」の墓と対になった神功さんと神武さんが出会っとるでしょ?香春の土地で。こういうことがきっかけなんですよ、何気ないことが。はい、これが今の香春の町でして、ここでこれは弥生時代の遺跡が出た図ですね。これ香春町の役場が出してくれてる図です。そこに香春一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳とありますよね。一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳です。


鶴岡八幡宮から弥生の円墳というのがですね、やっぱりこの町でもですね、弥生の円墳あたりが、やっぱりかつてここにも炭鉱(*不明)ったんですね、鉱山がね。その時にやっぱり、いくつか古墳が壊されてるという、まぁ情けない事実は存在します。しかし、やっぱりこれがかつてのその倭の国、神武さんが倭の国、邪馬台国を始めた最初の都の跡ではなかったかという風に私は睨んどるわけであります。