後漢式鏡ってのは丸のまま出てくるのは少ないですよね、ほとんど壊れて出てきますよね?三角縁神獣鏡丸ごと出てきます。壊れた三角縁神獣鏡って聞いたことないですよね?じゃあ、どっちが勝ったんですか?ってことで私は3世紀の卑弥呼の国ですね、この末裔の国がですね、卑弥呼さんから120年後、実は東鯷国から出てきた神功皇后さんに敗れ去ったんですよと。
つまり神功皇后さんが武力統一をやらかした。これが題名の「倭国易姓革命論」という私の初期の論文の骨子なんです。今まで聞いたことありませんよね?東鯷国が倭国を滅ぼした、統一した。私の説は今までの九州王朝論と違いまして、邪馬台国近畿説の人にとってはものすごく良い考え方だと思うんですけどね?近畿から出た、だって神功さんが倭国を滅ぼして統一したっち言うんですから。
これは邪馬台国近畿説にとってはもう諸手を挙げて賛成してくれてもいいんですが、当然学者さんは全然反応なしですね。はい、それからもう一つ倭国の証明です。楽浪式土器伝播図です。これはですね、原の辻というのが壱岐島から見つかりまして、これがあの卑弥呼さんのこの一支國ですよね。それを一つの証拠がこの楽浪式土器の伝播図なんですが、もう地図のご覧になっても太い矢印だけご覧なっときゃいいです。
はい、帯方郡からはい船出しました。はい、原の辻通りました。はい、福岡(*不明)着きます。ここが倭国です。もうそれから先行ってませんでしょ、楽浪式土器?簡単ですよね。はい、こういう交易活動の図もあります。さぁ、これがそれに対して東鯷国で作られたと思われる大型銅鐸です。三角縁神獣鏡の前です。これ野洲博物館ですね。神功さん訪ねてここまで行って来たんです、はい。
さぁ、これがもう一つ私がよく使う所の2、3世紀の倭国地図です。今日の福岡県です。今日の地図で、これはGoogleにFloodMapsという、まぁ洪水地図と言いますかね、これがございます。これでちょっと海面を7メートル上げてみました。こういう風に福岡県の中央、遠賀川の所に古遠賀湾という、昭和38年頃にですね、九州大学にいた当時助教授だった山崎光夫さんですかね、彼が筑豊の地をボーリング調査して、この辺りまで海だったという、その山崎光夫さんの古遠賀湾図と大体ほぼ同じ形になります。
つまり、2、3世紀の頃はこういう風になっていた。もうおわかりですね、志賀島はちゃんと島です。それから糸島の志摩も島です。糸島水道ちょっと端っこの方ですが見えておりますよね、はい。で、古遠賀湾がありまして、そして宗像市辺り見てください。これ今、釣川が流れてますがね、ここもかなり相当深い入り江です。で、ここにやはり魏志倭人伝の時に魏使が辿り着いた末盧國という、ここから陸行が始まるんですが、末盧國、私この宗像市に比定しました。
佐賀県の松浦郡じゃありません。だって魏志倭人伝読んでみりゃ簡単なんです。倭国はどこにあるか?帯方郡の東にあるっち言うんですから、東南にあるっち言うんですから、東南この辺りです。だから壱岐島から呼子に、唐津に下っちゃダメなんですね。ここまで行っちゃうと、壱岐島から呼子までは当時の里法でいってもですね、500里もないんですよ。明らかに魏使の一行は1000里行ったって書いてありますから、実は壱岐島から乍ち南し乍ち東するんですから、どっかまで南に行ったら今度は東に行かなきゃいけない。
東に1000里行ったら75kmぐらいですかね。それくらい行きますと、ちょうどこの宗像のですね、大島とこの2つの島と陸に挟まれてですね、ちょうどここに綺麗に行き着くんですよ。だから、この宗像の湾まで綺麗に入れちゃうわけなんです、そんなに迷うことなく。倭人の船の技術だったら、航海の技術であったら簡単だと思いますね。そして今こちらにいらっしゃるサカイさんという方に案内してもらったんですけどね、かつての宗像高女という、学校の跡地がですね、発掘されまして、そこに原の辻遺跡と同じ船着き場らしい物がちょっと顔を覗かしたんですがね。どうも末盧國の跡らしいんですけど。