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2016年12月22日

#003 「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三 [15分~20分]



これが今の私の古田さんの「邪馬台国はなかった」に対して「邪馬壹国こそなかった」という論文の骨子なんですがね。これもやがて発表いたします。その翰苑にはっきりとそれぞれ倭国と東鯷国、位置が書いてあります。三韓の南が倭国です。もちろん、馬韓、辰韓、弁韓の南ですから、もう朝鮮半島の南、もう九州に決まりです。それに対して東鯷国は三韓の東って書いてある。今の朝鮮半島、東、日本海進んでみてください。


やっぱり丹波の辺りです。もうそこに東鯷国あったと。これ翰苑の張楚金がはっきり書いてありますね。それで雍公叡の注にはっきり書いてあります。さぁ、そしてもうみなさんおなじみ倭国というのは銅矛文化圏です、弥生時代の。それから東鯷国というのは銅鐸文化圏にあたります。これも多分動かないでしょう。そして倭国から出てくる鏡、これは後漢鏡です。みなさん三国志をよく読まれた方、簡単でしょ?


魏の曹操は後漢の宰相だったんですよね?後漢と三国時代って実は一続きです。これ常識です。したがって魏の王朝は後漢の王朝をすぐ継いだわけですから、鏡は後漢式鏡、つまり魏鏡は後漢式鏡であるはずなんです。単純ですよね。この後漢鏡はみなさん知っての通り、考古学に詳しい方は兵庫県の加古川の西に出ます。加古川の東からはせいぜい籠(この)神社に祀られた前漢式鏡と後漢式鏡の一面ずつしかありません。


出土物としての後漢式鏡はありません。それに対してこの三角縁神獣鏡、ここに今、呉鏡と書いてありますが正しくは倭呉(鯷呉)合作鏡と言うべきでしょうね。これも後で紹介いたしますが、実は先程述べた謝承の後漢書が書かれた頃の王様孫権がですね、黄龍2年にですね、兵士の数が足りないということで秦の始皇帝の時代の徐福、徐福が東の蓬莱の島に行ったという伝説がありますよね。中国ではあれはもう史実なんですって。


ということはその徐福とそれから男女数千人ですか、若い子たちばっかりが既に日本、吉野ヶ里付近もそうですが、富士山の麓に至るまでみんな移植、移住して来てるわけです。その中国人の子孫たちがいるから、孫権は兵が足りないから東の島に行って、徐福の子孫たち探して来いと。それを兵士にすると言って、兵士1万人を夷州、澶州に遣わすという記事この後出てきます。


彼らは1万人の兵士たちの内、5000人が平和な丹波半島に出かけて行って「あ、オラんちの本国と違ってものすごく平和な国があるやないか」と、「もう、オラ戦争イヤだぁ」って言って逃げたの5000人。その5000人が逃げた後に、近畿地方に三角縁神獣鏡が生まれるわけです。藤田友治(ともじ)という人間が、もう今は死んじゃいましたけど、彼が最初に言いました。それを私が後から追っかけました。その通りだと。


だから、三角縁神獣鏡は国産の鏡なんです。そして中国の鏡には絶対存在しないという三階松、えーっと三階松はみなさんにはどこが一番有名でしたっけ?宮地嶽神社さんの御神紋です。あの三階松です。あの笠松文様が三角縁神獣鏡には入っております。つまり近畿地方にいた同じ三階松を紋章とする一族、権力者がその呉から逃げてきた兵士の中にいた鏡職人に、こういうデザインの鏡作ってくれって作ったのが三角縁神獣鏡です。


だから、中国側からは三角縁神獣鏡は一枚も出てきません。国産鏡ですから。ということはこの鏡の世界からいっても倭国は後漢式鏡の国であって、それから東鯷国は三角縁神獣鏡の国であると。三角縁神獣鏡はこれは近畿から始まって全国に広がるんですよ。後漢式鏡は先程言いましたように兵庫県の加古川で止まっちゃうんです。つまりここまでが倭国、女王国の範囲なんです、最大限の。