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2016年12月21日

#003 「大善寺玉垂宮と久留米の古代史」 福永晋三 [10分~15分]

それが例えば後漢書三国志倭人伝が書かれた頃の中国音では、やはり「臺」という字は「の」と「だい」というグループじゃなかったのか?と。実はこれみんな「臺」という字も含めて全部共通の、つまり中国の辞典では同じ韻のグループに入る字です。字なんです。そうすると失われた呉音と言いますか、中国の最も古い音の中に実はあの「臺」の字は「ど」という読み方をして、日本人が「やまと」の国って言ったから、それをその当時の字音を使ってやっぱり邪馬臺(やまど)の国と書いただけのことであって、これを後の我々が失った音の「やまだい」とか「たい」とか読んじゃったからおかしくなっちゃたんですね。


だから、陳寿さんが書いた頃、あるいは私が今持ち上げております謝承の後漢書、これは西暦250年頃、呉の孫権に仕えていた謝承という人物が書いた後漢書というのが三国志の前に実は成立してるわけなんですね。古田さんはこれを全く無視したわけでありますが。陳寿さんはこの謝承の後漢書を見ながら魏志倭人伝作ります。じゃあ、范曄の後漢書もその謝承の後漢書を基にして作られてる。


したがって、古田さんが言ったのと違って実は後漢書の方がやっぱり魏志よりも先に出来てるわけです。その呉の国において、その最初に謝承と呼ばれる人物が、これは孫権の第一婦人、謝夫人の弟です。その弟が、この国、あの中国において一番古い後漢書を書いております。これは中国は唐の時代まで残ってまして、それもわかっております。だから、書誌学的に言ってもですね、邪馬臺国というのは謝承の後漢書が多分一番古いんだと思います。


ここに書いてあります『魏略』ですね、こちら赤字で書いています。魏略よりも多分古いはずです。この魏略より古いはずです。そこにやはり邪馬臺と書いてある。そして、しかも当時の音では「やまと」という発音ではなかったのか?するとやっぱり「やまとのくに」なんです。卑弥呼さんの国が他でもない「やまとのくに」なんです。それとですね、もう一つにはこれは私が後に神功さんを調べていてはっきり出てきたんですが、東鯷国と呼ばれる、これは今の近畿地方、丹波地方中心に存在しておりました。


これまた図が出てくるからすぐわかると思いますね。これも倭国と東鯷国が、そこに書いてありますように倭国は漢書地理志の燕地、それから東鯷国が漢書地理志の呉地、それから後漢書倭伝にあります。この後漢書の中、これ私が古い時に書いてますので謝承っていう字が入っておりませんがね。多分、謝承の後漢書にも入っていて范曄の後漢書にも入ってるはずです。東鯷国はその後漢書、范曄後漢書に書いてあります。


それから、三国志魏書東夷伝、これが正しい言い方ですが、いわゆる魏志倭人伝の中に倭国が当然、倭人伝として登場してきますね。ところがこの東鯷国はこの魏志倭人伝の中には出てこないわけですね。なぜ出てこないか?っていうのは実に簡単なんです。魏の国は、倭の国と同盟を結んだわけです。この東鯷国というのはどうも倭国と違う文化圏にあったらしくて、しかも魏の国にとって敵対国である呉の国と繋がりがあるらしい。


考古学に詳しい方は日本の近畿地方から東、山梨県辺りまで呉の鏡、呉鏡が出てくるのご存知ですよね?あの赤烏(せきう)の年号が入った鏡です。つまり、呉と繋がりのある国、つまり魏の国にとって敵対してる国と繋がりのある東鯷国、当然晋に仕えた陳寿さんはこの国を堂々と書くわけにはいかないんです、敵対国ですから。敵対国の同盟国ですから。だから、書いてないんです。


魏志倭人伝にはしたがって同盟を結んだ倭国、女王国しか書いてないんですね。で、この『翰苑』という書物、これ唐の時代に出来ておりますが、その張楚金なんか書いた張楚金なんかは、あるいは注を書いた雍公叡に至るまでですね、唐の宮廷に仕えた人々は、朝廷に仕えた人々はみんな先程言いました謝承の後漢書、孫権の時代にできた後漢書をみんな見ております。


その人たちがみんな「邪馬臺」と書いてるんです。「邪馬壹」なんてどこにも書いてないんです。あるいはやっぱり12世紀の北宋、あるいは南宋の時代の版本にしか出てこないんです。だから9世紀までは絶対に「邪馬壹国」じゃなかった。