はい、それでは始めさせていただきます。題名がですね、最初古川さんからは吉山旧記について話してもらいたいという依頼があったんですが、今紹介いただいたように、今私が一番取り組んでおります所の「神武は筑豊に東征した」、その研究に入る前のきっかけが実は神功皇后紀でして、神功皇后と出会うことによって、その神功皇后が熊襲を退治してまわった、その先々で神武天皇さんとも出くわしたわけですね。
同じ土地で神武さんと神功さんに出くわす。これは一体日本史において、古代史において何を意味するのか?ということを考え続けながら、ずっと筑豊中心に福岡県、大分県、熊本県、佐賀県、長崎県まで足を伸ばして、神功皇后を訪ねましては京都府の北、丹後の辺りからですね、兵庫県を北から南へ、そして瀬戸内海を東から西へ、そしてまたこの福岡県へと、何回もあちこち行ったり来たりしながら神功さんを追求し、そして福岡の地でまた神武さんに出会い、そういったことでこの両者がとてつもなく密接な関係にある。
しかもそれがせいぜい300年ぐらいしか差がないということにもようやく気が付いてきたわけなんですね。従いまして今日は題名にありますように、神武と神功という形で、後半に吉山旧記の話をさせていただきますが、私のごく初期のテーマなんですが、「倭国易姓革命論」、明治憲法なんかにおいて、天皇は万世一系にして、神聖にして侵すべからずと、そげなことが言われておりますよね、天皇これを統治すという所とそれから神聖にして侵すべからずという、最初の2条でそういうことが規定されましたが、その万世一系が一番あてにならない。
天皇家というのはやっぱり古代において、権力の中心であるから、常にその転覆を狙うといいますか、そのクーデターを謀った連中が何度も何度も登場して、実は皇室は神武以来ですね、もうほとんどその血統が途絶えているというのが私の古代史へのアプローチの仕方であったわけですね。それにまた入り込み始めたのが万葉集、あるいは記紀歌謡とよばれる歌、倭歌ですね、ヤマト歌です。
この倭歌を中心にして、古事記、日本書紀に書かれている歴史もどうもおかしいと、地名研究会のみなさんは百嶋先生の実は天皇の系譜とか神々の系譜というのを、また全く別の福岡県の神社誌からですね、抜き出された本当に我々の今まで教わってきた常識とは違う系譜をご存知ですが、私はとりあえずまず古事記、日本書紀に書かれた皇室の系譜というのがどういうものかと。
一応、日本書紀に書かれてある中から抜き出せる範囲の皇室の系譜を何とか抜き出していこうと、天皇家ゆかりの書物からですね、逆に天皇家の実態を暴き出すという、そういう方向でやっておるわけなんですね。それが題名の「倭国易姓革命論」、これは中国の思想ですね。中国では代々、天の徳を受け継いだ者が皇帝になっていくということで前の王家とは、もう血筋が全然違うわけですよね。
これが「易姓革命」と呼ばれる中国は儒教の考え方です。それがこの倭国、倭の国でも実際にはあったんじゃないか?という、こういうことを大胆にも十数年前に初めて立てたわけですね。これに対してみなさんもご存じの古田史学と呼ばれる古田武彦の九州王朝論というのは、これはこれでまた九州王朝の中において万世一系であると、つまり卑弥呼さんの時代から俀國のアマノタリシヒコ、あるいはタリシホコですか、に至るまで代々九州に都があって、それで壬申の乱あたりからどうも今の近畿の王家に移って行ったんではないか?という先行論がありますが、これに対して私はもっと古い時代に倭王朝はこの福岡県に成立し、そしてここに書いてありますように易姓革命論、常にクーデターがあったんだと。
その一番大きなクーデターの主が神功皇后。これ後で出てきますけども、宋書とよばれる中国の歴史書には「神功天皇」とはっきり「天皇」と書いてあります。これも後でお見せいたしします。