みーんな、こっちです。三十三間堂もですよ。みーんな、こっちです。こっちにあったものを解体して、向こうに運んで組み立て直し、瓦を焼き直して、礎石を持ってきて、それで作り直しです。こんな中でですね、唯一ですね、私の嫌いな室伏志畔の一つの手柄がですね、この大善寺玉垂宮に残されていた佐野神様(サイの神/塞神/幸神/岐神)の前に置かれていた五重塔か何かわかりませんが、塔の一番中心の礎ね、心礎と呼ばれるものらしい、その欠片(かけら)が置いてあったんですよ。
で、その鬼夜の保存会会長をされていた光山さんが、「いつからこれ置いてあるんですか?」って私が質問した時に、「いや、それは近くの夜明(よあけ)の田んぼにあったやつをとにかく拾って持ってきた」と言われてたんですよね。そこに塔身と言いましてね、要するに柱の跡らしきものが、きれいに円を描いとるわけです。それに九州古代史の会の兼川さんという人が新聞紙をあてて、丁寧にその周辺をなぞってですね、それをきれいに新聞紙で再現して、それを室伏志畔が奈良に持って行って、奈良の薬師寺等々の心礎にあてたんですよ。
その時、大芝英雄さんという人が一緒に行って、それを調べたんですね、あてたんですね、その新聞紙を。大芝さんの名言、「あうでぇ」。寸法、ピッタリなんですよ。それでその吉山旧記て昨日お話ししたのが、今日来られてる方もいらっしゃるんですが、それが別名が「薬師寺旧記」って言いまして、大善寺玉垂宮はかつて「薬師寺」の持ち主でもあったわけです。この薬師寺が天武天皇の時に、何か知らんけどお寺が「潰される」んです…
それでその当時の薬師寺の住職っていうんですかね、責任者の人が親子して二人、自殺するんですわ。それが吉山旧記に残されてるんです。何で今まで自殺したかわかんなかったんですけど、どうやら無理やりお寺を奪われたかららしいんです。だから、彼らはそのことを忘れないために「吉山」という姓をわざわざ「薬師寺」に改めたって吉山旧記に書いてあるんですよ。だから、そういう廃寺に関わる悲劇がですね、ちゃんと吉山旧記という久留米のその社伝の中に残されてるんですね。
その社伝によれば、その大善寺にあったと思われる薬師寺の仏様は当時の一族が中国は「唐」から運んできた大仏様なんです、薬師如来なんです。それがまた更に奈良に持って行かれたとすると、今のあの薬師寺にある仏像は実は中国でも日本でも「国宝級」の物なんです。私はこの確認のために中国旅行して、大同(タートン)辺りの唐の時代の仏を拝んできたんです。肝心のまだ奈良の薬師寺の大仏さんは写真でしか知らないんですがね。
本物であれば、あれは唐の仏さんですからね、中国でも第一級の国宝。日本においても勿論、国宝なんですよ。そういうのがこの歴史の背景にあった時に、考えた時に、この倭の国の起こり、前半の所、卑弥呼さんの頃の女王国と狗奴国の対立、それを考えてみても、この菊池、山鹿の土地がいかに大切な、古代史の本当にキーポイントにあたるかっていうのが今日ご理解いただけました?
これ今日が初の発表ですから、中原先生とのコラボレーションで生まれた結論ですから、これを東京に帰って急いで原稿にしようと思ってます。この中原先生の調査結果が、この国の古代史を変えます!ということで、僕は中原先生おすすめしました。「先生、もう少し宣伝せないかん」って。菊池市をちょっと追い詰めて、こっちをあのね、古代史のね、その都の跡っていう風に宣伝せないかんと。そしたら、温泉と相まってですね、この土地はもっと栄えるんじゃないかなということを期待しとるわけですね。
それでやっぱりこの土地の歴史的な背景をもう一回見直せば、菊池市と山鹿とこの辺りの古墳も含めて、色んな古代史の遺跡というのは、そういう重要な、日本古代史の重要な意味を持ってくる。今まで教科書に書かれていた事柄をことごとく破壊し去るぐらいのですね、強靭な力を秘めてるわけですよ。もう、遺跡が証明してくれます。だからこれでもう、中原先生や古川さんが言う茂賀の浦の報告、こら大事にしてください。
大事にしてください。この湖の水が引けた後に、これだけの大水田が出来て、この力があの古代史から豊臣秀吉の時代まで、菊池氏の時代までずっと続いた。その勢力の根源ですからね、これがね。だからこの遺跡調査っていうのは非常にこれから先、貴重になってきます。もう、それだけは信じることができます。ということで、菊池のみなさん、本当にがんばってください。エールを送って終わります。
<完>