その経済力、軍事力の源もわかったわけでしょ?遺跡もあるんでしょ、これだけ?あるんですよね。秀吉の時代まで続くんですよね?だから、そういう一大勢力にようやく気付かされましてね。やっと「神武は筑豊に東征した」完成版が出来そうです。さぁ、それでですね、先程申し上げた中で、もう少しだけ、図あげときましょうかね。さっきちょっとお見せするの忘れちゃいましたけど。
天武、持統さんまで倭の国というのは、実はこちらの九州の方にあったんだという所までお伝えした所ですよね。それでこのキクチヒコの国、菊池氏もその倭国の中、倭の国の中に代々ありましてですね。その元々九州に倭の国があったという私の仮説なんですが、それがですね、さっき言いました東の大和にいつ移るのかという、ここに「大和王朝の東遷」て題してあります。この地図ですよ。
これはあの有名な北部九州の古代寺院跡、実は全部「廃寺」と呼ばれる。つまり、辞めになったお寺さんという遺跡の跡なんです。みなさんも、古代日本史教わった中において、奈良朝、律令時代がいかに仏教、国の教えとして大事にしたかってことぐらいはもう百も承知でいらっしゃいますよね?何でその福岡県において、律令制の一番完成した時代に、何でこれ廃寺だらけなんですか?
何で福岡県にお寺があっちゃいけないんですか?だからやっぱり、倭の国が「引っ越した」からでしょ?向こうの新しい土地ですぐにお寺を作ることができなかった。だから、この福岡県にたくさんあった、旧倭国にあった、こっちの熊本にもひょっとして廃寺あるんじゃないすか、本当は?このお寺さんを全部木造建築だから、分解します。木材だけ全部、新しい大和、Newヤマトに持って行きます。そこで再建します。
ただ、瓦と礎石は重いから向こうで礎石調達、瓦を焼き直して、向こうで再建します。だから今、京都、奈良にある法隆寺をはじめとして色んなお寺さん、大部分は元福岡にあった廃寺の跡だって考えられます。だからこれは遺跡の発掘状況調べてください。この廃寺跡からは「木材の一片も出てこない」んです。出てくるのは瓦と礎石だけなんです。変でしょう?この土地でそのまま潰されたんだったら、木材の一切れぐらい出たっていいですよね?
出ないんですよ。何せ、近畿の土地でみんな再建されてる。移築されてる。これも私じゃなくて、学者さんたちが調べた、そのいつ頃ですね、これが廃寺になったか。それを私が題名を変えて、「大和王朝の東遷時期」ってあてた。やっぱ見事にあそこ出てきますでしょ?ほら、あの時期見てください。この頃に廃寺になっちゃう。じっくりご覧ください。ほら、あそこに東遷時期がはっきり出とるでしょ?
これみんな同じ時期でしょう?ほとんど。学者さんたちが調べた結果ですよ。ほら、この時期、仏教が一番大切な時代に、何でこれ廃寺になるんですか?もう、運ばれたからです。福岡県から、これだけ廃寺なんです。だから法隆寺も多分こっちのどっかにあったんですね。長谷寺も。薬師寺も。三十三間堂も。