この戦で女王国は敗戦するわけですよ。だから、卑弥呼さん死んじゃう、自決に追いやられちゃう。男王は立つけれども、まだ国中は不服、服しないと、定まらないと。ほんで、こっちの南の方は平然とこの大穀倉地帯抱えて勢力はずんずんずんずん続いて、装飾古墳の時代にも続き、律令時代にまだ鞠智城が建つわけですよ。だから、あの鞠智城の「下」が知りたい。先程紹介した笠置山も中世の城、笠木城が建っとるんですわ。
あそこに実は天照宮、つまりニギハヤヒの跡地と思われる部分が一か所、ちゃんと天照宮の領地として残されてるんですがね。だから、あの中世の城も掘ってみたら何があるんだ?ということになるんです。我が国の考古学会というのは今出てる遺跡の下は掘らないというのが原則なんですよ。大宰府というのも実は内倉さんの言う通り3層、下に古い層があるんです。都の跡が。建物の跡が。
ところが今残されている大宰府の政庁跡ということで、これから下掘らんのです。部分部分の所をトレンチして、その下に更に何かの層がある、何かの建物の跡があるということはわかってる。だけど、全面的に一番上の層を保存して、下を掘ろうという人は誰もいない。「下の遺跡が何かわかったら困る」からです。日本書紀に合わなくなるからです。じゃあ、律令制の大宰府以前の前の、下の層の建物は一体誰が、いつ頃、何を建てたのか?
わかったら怖いからです。じゃあ、今の律令制の鞠智城の下は何か?もう、これはおそらくキクチヒコの居城跡でしょう。出てくるんですよ、邪馬台国のライバルの狗奴国の跡が。これが出たら、もう日本考古学、歴史学決まりですよ。狗奴国が確定したら、女王国はその北に決まっとるやないですか。三国志にそう書いてあります。中国側はそんなめちゃくちゃ書くわけないですよね?自分の国のイデオロギー関係しないんですもん。
東の端っこの国のことですもん。倭人が言う通りに書きゃいいで済む、いいだけですもんね。イデオロギー一切ない。その南が確定したらですよ、もう北の女王国明らかなんですよ。これで「邪馬台国近畿説」というのが、いかに「デタラメ」だったかということがおわかりになりますでしょう?さぁ、一応これで3世紀はわかりました。それで昨日、私が久留米の方で神功紀をやりまして、これで4世紀が解けた。
その後、先程チラッと香具山の所でお伝えしたように、斉明天皇も香春の土地に狂心の渠をつくられてる。だから、何気ないこと私言ってるようですけど、とんでもないこと言ってるわけですよね?斉明天皇まで間違いなく九州にいた、いらっしゃったって言ってるんですよ、私は。もう一つ行きましょう。天智も九州にいた。天武もいた、いらっしゃった。ちょっと尊敬しておきましょう(笑)。持統天皇も実は最初いらっしゃった。
この天武・持統さんの頃から100年かけて、そして天武天皇の時に「南海トラフ大地震」が起きます。通称「筑紫大地震」です。これで建物が壊れて、天武さんビックラこいて、「あーもう筑紫の地に住むのヤダ」と。それで「倭民族大移動」が始まります。これがこの前亡くなった森浩一さんが言った所の「邪馬台国東遷説」ですよね。ただ時期は7・8世紀、もっと後です。それ以前には、物部氏なんかが、ニギハヤヒの次男坊のウマシマヂノミコトというのが東の近畿の方に出かけて行ったという記録、記憶は段々残されていることがわかってきました。
だから、早くに東征とか東遷というのはニギハヤヒの時代にもあったみたいです。でもしかし、例の神功さんの所で説明したように東鯷国と倭国というのはずーっと並び立ったまま、それで4世紀に東鯷国から神功さんが出てですね、それでこの九州の各地を統一するという、そういう話が熊襲征伐なんですよ。実はこの「タラシ系」天皇、神功さんはオオタラシヒメっち言うんですがね、オキナガタラシヒメ。それから、それに対してちょっと前の景行天皇さんがオオタラシヒコって言うんですよ。