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2016年11月25日

#002 「神武と魏志倭人伝」福永晋三 [1時間40分~1時間45分]

応神さんじゃないんです。神宮天皇さんが15代なんです。さっきの求菩提山縁起にあったように神功さんを15代と数えた時に継体が27代になるわけなんです。日本書紀では26代なんですよ。だから、この東大寺の僧奝然がもたらした「王年代紀」は一体いつ、誰が、どこでつくったのか?という謎が残るわけです。もちろん、もう中国では残ってません、「王年代紀」は。日本国内にも残ってません。


日本国内にあるのは、日本書紀だけです。ほら、数え方違いますでしょ?九州にはこの一代違いの天皇さんていうのがあちこちの神社に出てくるんですよね。そういう謎があるということも、ご存知の上で、今日のこのお話、この東鯷国と、それから神武さんの建てた倭国、邪馬台の国ですね。今日はまずこの中のお話です。私はその神武が筑豊に東征したというのを福岡県の現地伝承、神社伝承から日本書紀とあわせてようやく抜き出したんです。


ただ、私はその際にですね、神武天皇がどこから出発したか?というのをですね、これは古田武彦さんに倣って福岡県糸島半島の日向峠(ひなたとうげ)、とにかく糸島半島辺り出たんじゃないのかと。そういう暫定から始めました。それで大事なことはですね、神武の出発地、私は福岡県の伝承だけではこれを抜き出すことができなかったんです。そこで昨年、中原先生に日向(ひむき)の山陵ですね、あの吾平の山陵、相良観音とかあります。


あれを教わった古川さんに案内されて、去年この会が終わった後に行きました。吾平山陵。あそこで私の頭はハンマー叩かれたようにブワァーっと頭の中混乱して、「え、これがお父さんのウガヤフキアエズの陵?え、神武ここの出身?菊池の出身?えー、えー、えー?」と私の頭の中、去年のその瞬間から20分間、もうグァラグァラグァラと混乱しましたね。冷静になって考えました。「うん、そうや」と。


大事なことはですね、みなさん古事記もう一回読まれてください。神武天皇のその出発地がね、古事記の方には書いてあるんですよ。書いてあるんです、本当に。日本書紀では「日向国」から出たということになってるんですがね、古事記をね見比べた時にはですよ、本当にね、わけのわからんことがね、書いてあるんですよ。そして、< 何れの地(ところ)に坐(いま)さば、天の下の政(まつりごと)を平(たひ)らけく聞こし看()さむ。なほ東(ひむかし)に行かむと思ふ >


東に行こうと思うということで東征が始まるんですが、その次の一節にですね、この一句なんですよ。日本書紀では明らかに日向国から筑紫の国に行ったとあるんです。本居宣長先生はだから日向国(ひゅうがのくに)・宮崎県から筑紫に出たんだとこう解釈してたんですよ。ところが古事記には実は「国」の字がないんです。「日向」より出発して筑紫においでになったと書いてあるんです。


古田さんが発見した神武の出発地であるのが、これが糸島半島の日向だったとすると、あるいはあれは筑紫の日向(ひなた)のクシフル岳なんですからね。だから古田さんの解釈じゃあ、筑紫の日向なんですから、「筑紫=日向」なんです。言い方変えれば「筑紫」から「筑紫」に行ったんです。この古事記の原文の「日向」(ひむか)ちゃどこや?というのが、私の頭の中でずっと謎だったんですよ。それで去年、ウガヤフキアエズの陵と言われる、この吾平山の吾平山陵見に行ったわけでしょ?