ここに久留米の大善寺玉垂宮をやっつけた時のルートもちゃんと残されてますね。ここに吉山旧記が出ております。これ鬼夜ですね。それから神功皇后さんの跡を、九州の各地に訪ねて行って、これが古遠賀湾の図です。神功皇后はここにも関係しております。こういったことをやったわけですが、今日はちょっとここを見て欲しいんですね。ここです。<
伊弉諾尊次素戔烏尊
>、これはですね、宋史日本伝中と書いてありますね。
「王年代紀」これはですね、奝然(ちょうねん)という東大寺のお坊さんがですね、984年に中国にもたらした王年代紀、つまり日本の天皇さんの記録ですよち言うんです。それに基づいて宋史が編まれてるんですが、その中でですね、ここに私たちがよく知るイザナギノミコト、それからスサノオノミコト、この書き方からいけばスサノオノミコトは即位してる。一時期、天下の中心だったって書いてあるんですね。
それからが、天照大神尊です。これ、変な系譜ですよね。私の創作じゃないですから、ええ。それで<
次正哉吾勝勝速日天押穂耳尊(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)次天彦尊(あまひこのみこと)次炎尊(ほむらのみこと)
>、これ知りませんね。次に彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)、つまりウガヤフキアエズですね。<
凡二十三世並都筑紫日向宮
>凡そ23世、並びに筑紫の日向宮(ひむかのみや)に都す。
ここの所、覚えておいてくださいね。筑紫の日向に都したんですねぇ。それから<
彦瀲尊第四子神武 >、今日お話ししております神武。が、<
筑紫宮入居大和州橿原宮
>筑紫の宮に入って、筑紫の宮からですね、大和の州(くに)の橿原宮に入ったって書いてあるんです。即位しましたよと。その即位元年が、私の説と違って、この王年代紀では甲寅(こういん)、ですから118年の方になるんですかね。
これが周の僖王(きおう)の時というのは、これは日本書紀の、日本紀の紀年ですね。それから次が綏靖、これは普通通りでしょ?後、安寧とこう続きますね。ところが、ここで面白いことには崇神、垂仁の次の景行の所に関し、それから成務ですね。こういうのが書いてありますね。それから仲哀の所に変な記事があるんですよ。<
國人言今為鎮國香椎大神
>國人言はくですね、今鎮国香椎大神と為すってある。今まで見たことないでしょ?
これ宋史にちゃんと出てますよ。そして、これちょっと知っといて欲しいんですが、この宋史では明らかに「神功天皇」さんなんです。もう一回行きますよ?東大寺の僧、奝然が中国にもたらした資料ですよ?王年代紀は我が国の物なんですよ?その中に、明らかに「神功天皇」さん書いてる。日本書紀とも違うんですよ、これ。違うでしょ?もうスサノオノミコトさん即位してます。その後が、アマテラスです。
こういうね、面白いのが書いてあるんでございます。(省力)わかんないのは、その天皇の、神功天皇のことを<
國人言今為大奈良姫大神
>國人が言う、今は大奈良姫と為すと書いてあるんですね。大奈良姫というと。今まで我々が日本書紀や古事記で知りえなかった名前、系譜というのが、こうやってポコポコ出てるんですよ。つまり、この系譜で考えると、神武さんから数えて15代が神功天皇さんです。