つまり、卑弥呼さんは王の資格を失うわけです。なぜか?一つにはこれしかないんです。狗奴国に負けたらしいんです。負けた責任取らされるんです。だから、「以死」なんです。自決させられた後、大いに塚を作り、徑百餘步と、こう書いてあるわけですね。この卑弥呼さんの墓がどこにあるか?まだ検討課題です。そして、その卑弥呼さんが亡くなって、難升米さんが後を継ぐんですが、249年から255年、再び倭国乱る。
魏志倭人伝によっても、更に男王立つるも、國中服せず、この男王こそ、この難升米さんなんでしょ?
更に相誅殺す、當時千餘人を殺すという、こういう大乱にまた発展するんです。266年、臺與即位です。先程、邪馬臺国で紹介しましたように、どうも三国志にも本当はやっぱり「臺與」と書いてあったらしい。壹與ではなかったみたいです。これが秦という魏の次の王朝に遣いします。
また卑弥呼の宗女壹與、これは北宋の三国志の版本からとりましたので、これは壹與になってます。を立てたと。年13王と為る、國中遂に定まるとありますね。この時に男女生口30人、また食用の奴隷送ります。それから更には白珠、多分真珠でしょうかね、5000。それからわけのわからない青大句珠(せいたいこうじゅ)2枚、こういった物を、それから更に倭国では錦、絹織物がとれたみたいですね。
これを送ったと。先程出てきた塞曹掾史張政等が、この時に壹與に檄文をまた与えたというわけですね。臺與は大夫率善中郎將、先程の掖邪狗という人物が出てきますね、等に20人と、それから政を送り還してきたとあります。そして、中国の王朝、都に詣ったと書いてある。これ中国側の記録ですね。後は飛ばします。この間に後、いろんなことが起きるんですが、これは久留米の大善寺玉垂宮より伝わる吉山旧記から抜き出したやつですが、仁徳57年ですね。
水沼の皇都を建てたということで、これはいうなれば新・倭の国ですね。神功天皇さんが建てた国が、久留米の所に建つわけです。それでですね、ここの所ちょっと面白いんで、これをちょっと、もうすぐやめにしましてですね、もうちょっと昨日話したところをですね、少しやってみましょう。これが昨日、お話しした所で使ったんですが、もう一回図で確認してください。銅鐸文化圏・東鯷国ですね。銅矛文化圏・倭国です。
この図、ちょっとまた頭に置いてくださいね。それで、水沼の皇都、ここにとにかく神功さんが都を置いたんだということを明らかにしました。万葉集からです。これが神功さんが熊襲を退治してまわったルートということで、これは小倉(こくら)に住んでらっしゃる方が「ひもろぎ逍遥」さんよりもずっと前に出された「神功皇后の戦略」という本の挿図です。