これが倭国、つまり邪馬台の国らしいんですが、もうみなさんご存知の通り、倭国は、女王国は後に魏に使いを出して、魏と連合するわけですよね。だから、この時、呉の使いがですよ、後に魏と国交することになる女王国の方にやってきたとは考えがたいんですよ。この時、呉の使いは果たして九州のどこに来たのか?これも今まで私が謎に思ってきた部分です。これが今日解けます。
そして、もう一つ、これは呉と元々仲良かったらしいんですが、銅鐸文化圏、東鯷国まで出かけます。そこで平和な国を見た5000の兵士が脱走します。その脱走直後に、あの三角縁神獣鏡がつくられます。これがおよそ歴史的な事実です。この三角縁神獣鏡が近畿から全国に広がります。魏の鏡と思われる後漢式鏡は加古川水系でとどまります。ここに私は倭国と東鯷国の戦いというものを認識したわけです。
その240年に、その使いに応じて、魏の使いが邪馬台の国、女王国にやってきます。これは三国志魏志倭人伝の記録ですね。正始(しょうし)元年太守弓遵(きゅうじゅん)建中校尉梯儁(ていしゅん)等を遣はし、詔書、印綬を奉じ、倭國に詣(いた)るという記事ですね。243年、卑弥呼は大夫、何て読むんでしょうね?伊聲耆(いしょき/いせいき)ですかね?それから掖邪狗(えきやこ/えきやく)ですかね?等8人をまた遣使として中国側に派遣します。
このあたりは、これはもう中国側の史書ですから、まず日本の学者も疑っていないですよね。はい、245年、中国では正始6年、詔して倭の難升米、先程の使いですね、(なんしょうまい/なしめ)に、黃幢(こうどう)を賜ふとありますね。それから郡の假授(かじゅ)ですかね?郡に付するに假授なんてことが書いてありまして、とにかくこの黃幢
を難升米に与えたという所が、これが結構大きな謎なんですよ。
その次に今度は247年、邪馬台の国、狗奴国(くぬこく/くぬのくに)と交戦。正始8年、太守王頎(おうきん)官に到ると。倭の女王卑弥呼と、それから狗奴国の男王卑彌弓呼(ひみくこ)、あるいは後漢書にいう狗古智卑狗(くくちひこ)ですね。と、素より和せず、倭に遣はすに斯れを載すとありますね。それから烏越(うえつ)等云々云々と書いてありまして、ここで塞曹掾史(さいそうえんし)張政(ちょうせい)、つまり軍の長官ですが、これをわざわざ倭国、女王国に派遣するわけです。
この時にやっぱ黃幢をもたらしたて書いてありますね。難升米に拜假して檄を為し之に告ぐとあります。これが大事なことなんです。この黃幢は最終的に卑弥呼の使いだった難升米さんに与えられるんです。これが原因で248年、卑弥呼は死去するわけですね。そして、卑弥呼以って死すと書いてあります、これ魏志倭人伝です。この「以って死す」は、近頃やっぱりかなりたくさんの学者が言い始めました。
三国志に出てくる全部の「以死」の表現を分析したら、これは何らかの罪を得て、自決させられた場合に使われる表現だそうです。つまり、卑弥呼さんは「自決」に追いやられたんです。「自然死」じゃありません。これは最近の学者が言い始めました。私もそうだと思います。じゃあ、それが狗奴国と交戦した後に、その黃幢という魏の使い、魏に冊封する国として与えられる、王に与えられる資格と思われる黃幢が、その使いであった難升米さんに与えられた。