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2016年11月9日

#002 「神武と魏志倭人伝」福永晋三 [1時間20分~1時間25分]

それで一女子を共立した。そうしますと、いつ頃から乱が始まったか?もう一回ちょっと前に戻りましょうね。ほら、ここです。カムヤイミミノミコトが亡くなった、あるいはその前のタギシミミノミコト大王が殺された、これから数年でしょ?一番早くて倭国の大乱は146年からですもんね。これに近いでしょ?これに近いですよね。これが倭国の乱であろうということで、ここで一つ記憶にとどめておいていただきたいのが、「倭国の乱の原因」は何だろう?ということです。


今まで、どの学者も言ったことないです。今日のメインテーマにつながります。そこで私が出した卑弥呼さんの即位年はいつ頃かと。この崇神の崩御の198年までがわかりまして、この間、大体140年代からこの198年まで乱が続いたとしますと、日本書紀によっても崇神の時に初めて乱がおさまったと書いてあります。だから、この後に卑弥呼が共立されたのであれば、199年または200年、これこそが卑弥呼の共立の年であるということがわかってきます。


そうした時にですね、日本書紀が面白いんですよ。日本書紀は神功皇后紀の中の割注に卑弥呼と台与/臺與(とよ)の記事が出てまいります。したがって、卑弥呼とそれから神功がほぼ同時代の出来事という風に構成したのが日本書紀です。しかし、これは神功皇后紀が外国の資料、歴史と史書とが引用されてますので、実は神功の年代というのは卑弥呼さんよりも干支60年、一巡ですね、の2120年ずらされております。


前に持ってこられています。だから、本当は卑弥呼さんの時代の120年後が神功さんの時代です。その卑弥呼さんと神功さんが一緒にされた段階で神功さんの即位が西暦200年にあたると、日本書紀書いてます。これが実は卑弥呼さんの即位年だとすると、ここにピッタリ200年即位という年号が出てくるわけです。一応、この国で初めて計算しました。日本書紀が一番正しかったとすると、神功さんの即位年、すなわち200年こそが本物の卑弥呼さんの即位年。


こういう可能性が出てきたわけなんですね。それから38年後に、一つ飛び抜かしまして景初26月、この時に邪馬台の国の女王、神武の後継者たる卑弥呼が魏の帯方郡に大夫難升米(なんしょうまい/なしめ)、どう読むかわかりません、を遣わしたと。これが中国の魏志倭人伝に書いてありますね。即位してから38年です。15才あたりで即位したとしても、もうちょっと歳ですわね。


はい、この使いを出しておりますね。この後に、240年に魏の使いが邪馬台の国に来ます。だから、この時の魏使はもう50代の卑弥呼さんに会ってることになりますね。問題はこの230年記事です。将軍衛温(えいおん)、諸葛直を遣はし、甲士万人を率ゐて海に浮び、夷州、これ推定倭国にしました。および亶州(たんしゅう)、推定東鯷国、というよりむしろ丹波の国ですね、丹波王国です。


亶州を求むと。これは孫権が魏との戦いに備えて、兵士が少ないんで、あの徐福が秦の始皇帝時代の徐福が東方の国に出かけて行って、その子孫がいるはずやから、これを兵士として取り立てて来いと。そういう命令を下すわけですね。これが三国志の呉書孫権伝黄竜2年、これがピッタリ230なんです、西暦の。この時に、呉の使いが夷洲に来たらしいんですね。