それから夏4月、これ、今日の後半大事なところです。手研耳命(タギシミミノミコト)即位です。もう、みなさんは第2代は綏靖、神渟名川耳尊(カムヌナカワミミノミコト)と教わってますけど、私の方ではタギシミミが明らかに即位してますよと。2代タギシミミノミコトは邪馬台の国、旧倭奴国を巡幸すると。そういったことで、この方が「豊秋津洲倭」という号を始めたらしいということを推測しました。
神武のお墓が先程の「おほきんさん」。137年に、畝傍山東北陵におさめられた。「畝傍山東北陵」。香春一ノ岳が畝傍山であれば、その東北に地元の人が代々大切にされてきた「おほきんさん」の墓が見事に東北にあるわけです。日本書紀の記録もすごいですよね。「おほきんさん」、多分あの字でしょう。「大王様」と書いて「おほきんさん」。名前がないから中国の始皇帝陵と同じで初代大王、初代天皇さんの墓じゃないかと思われるんですね。
(休憩)
はい、それでは再開致します。年表の続きです。もうしばらくお付き合いください。139年、皇子カムヌナカワミミノミコト、これは後の綏靖ですね。タギシミミノミコト大王を弑し、王位を奪う。これが日本書紀にはっきり書いてありまして、太歳(たいさい)己卯(つちのとう)、この干支からですね、この139年とかいう年号が大体明らかになってくるんですね。それから140年春正月、カムヌナカワミミノミコト、天皇位につくと。
葛城(かつらぎ)、あるいは香月世譜(かつきせふ)なんてありますので、これひょっとして香月君との関係で、「葛城」(かつき)と読むのではないかというのが、今の私の新しい説です。葛城(かつき/かつらぎ)に都す。この年、太歳庚辰(かのえたつ)と。日本書紀の記述はここまでが当たってるみたいです。143年夏4月、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)薨(こう)ず。すなわち畝傍山の北に葬る。
彼のお墓はもう壊されて、ほとんどないんですが、今の香春町歴史資料館の外側にですね、かつて宮原という遺跡から出た石棺がですね、いくつか再現されておりますが、その内の一つが彼の墓かもしれません。大事なことは次ですね。みなさん、これよくご存じの桓・霊の間、倭国大乱。これが范曄後漢書に書いてあります。それから178年から184年、霊帝の光和中、倭国乱れ、相攻伐すること歴年。
これが梁書に書いてあります。これは上が長い期間、下が短い期間ということで、別にこれは矛盾するわけではありません。次が、これが私が中国の史書と、それから日本書紀、鞍手郡誌、etcの資料をあわせて、特に魏志倭人伝と比べた結果です。神武即位121年から崇神崩御198年、これは古事記の太歳から割り出しました。の、78年間は、魏志倭人伝のこれですね。
<
其國本亦以男子為王住七八十年倭國亂相攻伐歴年乃共立一女子為王名曰卑彌呼
>、其の国本亦男子を以って王と為し、とどまること七八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年。乃ち共に一女子を立てて王と為す。名づけて卑弥呼と曰ふ。有名な記事です。この「本亦以男子」、私はこの最初、だから神武に位置づけたわけですね。この7、80年は男王が即位していたけども、倭国は乱れて攻伐したというわけですよね。