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2016年11月7日

#002 「神武と魏志倭人伝」福永晋三 [1時間10分~1時間15分]

9月、天香山、これです。これにこだわって神武は一体どこを攻めたのかという、攻めた場所をやっと明らかにできたんですね。 天香山攻略にかかると。10月に赤胴(しゃくどう)の八十梟帥(やそたける)を国見丘に破る。これ日本書紀通りです。11月、彦山川水系を南下し、嘉麻川水系に入ると。十有一月の癸亥の朔己巳に皇師大きに擧(こぞ)りて、磯城彦を攻めむとす。これが古事記では兄磯城です。


先程の立岩丘陵にこもる熊野の神邑にこもる、磯城彦を攻めようとして、神武は川と海の混ざる広大な沼を徒歩で渡り、片島に上陸。鞍手郡誌射手引神社社伝に書いてあります。だから、日本書紀補えたわけです。ついに熊野の神邑を攻撃し、磯城彦を滅ぼすと。天磐盾、これも熊野神社のすぐ上にあります立岩神社に上り、東征成就を天祖に祈願した。これも射手引神社社伝です。


筑豊の神社さんの社伝です。12月、長髄彦との最後の決戦に臨む。十有二月の癸巳の朔丙申に、皇師遂に長髓彦を撃つ。苦戦を強いられたようだが、辛勝し、終に長髓彦を殺すと。これであの金印の国が滅びます。「倭奴国滅亡」です。これは求菩提産縁起と合いますでしょ?威奴の邪神を払いです。長髄彦は年代が合わず、滅ぼされたのは、天忍人命、天忍穂耳尊の兄弟のようです。


ニギハヤヒの別の末裔、これは瀛津世襲命(オキツヨソノミコト)というんですがね、彼は神武に帰順したようだというのも大体わかっております。これは物部系譜です。119年春2月、諸将に命じてということで、残存勢力をやっつけると。ここです、3月、畝傍山、香春一ノ岳です。香春一ノ岳の東南の橿原の地に帝宅の建造を命じる。これは日本書紀に書いてあります。この後、鞍手郡誌によれば神武は一旦、宝満山、すなわち筑紫に陸路で凱旋する。


これが日本書紀にない部分です。「筑紫に凱旋」したんですから、神武の東征、奈良県まで行ってないでしょ? 「筑紫に凱旋」って、はっきり鞍手郡誌射手引神社に書いてあるんですもん。だから、宝満山に帰ったということは、ここでも日本書紀、古事記と一致しないわけです。筑紫に凱旋ですから、神武の東征は意外と、私が言います所の「豊の国」だったということですね。9月、イスズヒメですね、媛蹈韛(たたら)五十鈴媛命を納(めしい)れて、以て正妃と爲す。


新しい正妃を迎えるんですが、それで天神の血統入れる婚姻であるということで、自分が新しい帝王になったということを示すための結婚だと思います。この結婚が後で、禍根になってまいります。121年、これが有名な、かつての建国の記念の日ですね。あの頃は何て言ったんですか、戦中は?戦中は何と言ったんですかね。あのめでたい日の出来事ですね。天長節ですね。


辛酉年の春正月の庚辰朔に、朔の日に、天皇、橿原宮に於いて帝位に即きたまふ。これで「邪馬台の国」が始まるわけです。香春町の鶴岡八幡宮、これが多分、橿原宮だろうと思われますね。2月に論功行賞、頭八咫烏、亦賞の例に入ると。求菩提山、英彦山から彦山川水系に沿って、もちろんこの褒美が欲しくて味方したんでしょうね。今日の田川郡赤村より烏尾峠という交通の要所がありますが、烏尾という表現にありますように、あそこまでがギリギリ八咫烏が神武天皇からもらった領地だと思われます。


これは古川さんも調べておられますけど、「鳥」というのはどうも「烏」を表すみたいです。飛ぶ鳥の明日香というのも、奈良県の明日香じゃなくて、私はこっちの田川郡赤村だって比定したわけです。あるんです、あそこに飛鳥川が。136年春3月、神武崩御、享年67と。