中国人はよく食人やります、人間喰います。この時、倭人というのは良い水の土地に生きておりますので、中国人には非常においしい人肉だったらしいです。だから、この奴隷さんたち、子孫、中国大陸に残ってません。何せ言葉が違う人間を生産の奴隷にすることはできないんですよ。だから、この人たち喰われただけです。塩漬けか何かにされて。かわいそうです。
卑弥呼さんも出しますよ。この倭国王は天孫本紀、旧事本紀にいう天忍人命(あまのおしとのみこと)か?っていう風に書いてありますね。まだ今の段階では推測しかすぎません。この頃から、韓半島、倭奴国乱れ、以後、漢への遣使が途絶する。これは歴史事実ですね。西暦114年、磐余彦、これは日本書紀から割り出しました。冬10月、諸兄、諸王子らと第一次東征を開始。
神武東征は二次だったんですね。これは私の分析です。11月、岡水門(おかのみなと)、もうおわかりでしょ?さっきの古遠賀湾図です。はい、岡水門に至り、軍備を整える。115年春3月、遠賀湾を遡り、夏4月、長髄彦軍と交戦。五瀬命負傷し、敗戦。そして博多湾、住吉神社近くの草香津に帰還したと、これが歴史事実のようです。だから、負けてしまったから、神武の軍隊は一度博多湾に引き上げてくるんですよ。
これがミソです。今までみなさんが教わってきたのでは、神武はあちらの紀伊半島まで出かけてしもうて、あの難波の湊でやっつけられて、それでグルーっと紀伊半島迂回して、それで熊野から再上陸したっち言うんでしょ?でもちょっと変ですよね?あそこで大部分の軍隊失って、補充する暇もなかった神武が、どうやって後、あの大群と戦ったんですか?理不尽ですよね。
戦えないですよね?この鞍手郡誌、射手引神社社伝によれば、あるいは日本書紀に基づけば、彼は一旦、草香津まで戻るんです。戻って、再軍備するんです。その再軍備する場所が日本書紀と古事記ではないんですけど、ここに鞍手郡誌の、射手引神社社伝を入れると、明らかに彼は筑紫に戻ってくるんです、一旦。3年間我慢するんです。それで115年5月に五瀬命が死去しますね。
それで今では、紀伊の和歌山の竈山に葬られたっていうことになってますが、宝満山に竈門神社あります。あの竈山に葬られたんだろうと。あそこに、五瀬命のお墓が本当はあるはずなんです。まだ私も探しきれてませんが。その竈山の高千穂の宮において3年間、再軍備をすると。118年春2月、第二次東征開始と。それで今度は、古遠賀湾に直接入ったら負けるから、「日を背にして戦う神策」を神武は取ります。
速吸門(はやすいのと)、関門海峡に至り、珍彦(うずひこ)を道案内とする。で、宇佐に至り、一柱騰宮に入る。数ヵ月、さっきの求菩提山縁起、これでわかりました。狹野嶽に通い、大天狗豊前坊及び頭八咫烏と書いてありますけど、この頭というのが本当は大天狗、ヘッドを指します。だから、この頭が大天狗で、八咫烏があの八天狗ですね。一族と同盟を結ぶ。この間、吉野の国樔、これもやっと応神天皇紀を読んでて気付いたんですね。
吉野の国樔、そこに(玖珠)書いてありますね、あの大分の玖珠です。あそこの人々を手なずける。何せ、倭奴国に突入してですよ、それで南の側の吉野の連中が倭奴国を応援して挟み撃ちにあったら、神武の軍危ういわけですよ。だから、周到に英彦山の南、あの玖珠の辺りにいた一族をやっぱり手なずけておいて、それから今の遠賀湾辺りにいた倭奴国の中心の人たちをやっつける。
まぁ、これが事実だと思われるんですね。6月、「天皇獨り、皇子手研耳命(タギシミミノミコト)と軍を帥ゐて進むと。既にして皇師(みいくさ)中洲(なかつくに)に趣かんと欲す。」、これ日本書紀に書いてあります。これ当たるわけです、鞍手郡誌と。7月、八咫烏の案内で英彦山を下る。8月、菟田縣の血戦に勝つ。