そしたら、この地で、同じ場所で、そのまた昔の、神武さんがここから最後の決戦にのぞんだという伝承が残されていたんで、同じ福岡県内で、神功さんと神武さんがあちこちで、ぶつかるわけなんですね。何でだろうというのを考えて、今のような仮説を立てるに至ったわけです。それでは、今の写真を頭に置かれて、そこに手元にまたある白黒ですがございますので、それをバックフィードしながら、私が「神武は筑豊に東征した」で述べた神武東征の年表をですね、これちょっと確認していってください。
じゃあ、年表少し入らしてもらいます。私の方の資料から読み取った年表ですが、まず紀元前14年、先程のニギハヤヒ、これが豐葦原瑞穗國(とよあしはらみずほのくに)の笠置山に降臨したと。で、ニニギノミコトは、これは日向のクシフル岳に降臨と古事記には書いてあります。ここで私が使ってる「天満倭国」、これも倭歌から取り出したんですが、「そらみつやまと」。「虚空(そら)見つ倭(山跡)」というのは、元はこう書いたんじゃないか?と。
それは、本来は「あまみつやまと」という意味ではなかったかと考えておるんですね。これで、「天満宮」わかりますでしょ?太宰府天満宮。祀られてるのは当然、「天神様」です。天神様ちゃ誰かというと、私の場合、「ニギハヤヒ」です。その天満倭国=あの金印の国・委奴国が成立したわけですね、福岡の土地に。ニギハヤヒは古遠賀湾沿岸部を領有、中洲皇都(なかつくにのこうと)を建設。
これは太宰府の天満宮にも中つ国の皇都を征伐しに、神武が出かけられたという伝承が太宰府天満宮に残されております。あ、ごめんなさい、竈門神社ですね、竈門神社に残されてます。で、天物部八十氏(あまのもののべやそうじ)が、筑豊の山や島を領有し、「山島に居し、分かれて百余国を為す」。中国史の山島に居しというのは、山か島に住んだ、山か島に住んだ。ということは、山がちの島という学者さんたちの説もこれであたらないことになりますね。
中世の戦国時代の城も、山城か平城(ひらじろ)です。平城の大切なところは、濠を掘るところです。だから、弥生時代の山城と、それから島に住んだという形式が中世まで続いたんでしょ?山城はそのまま防御になりますね。平城は濠がないと、水に囲まれてないと、すぐ敵に侵略されちゃうんです。だから、この山島に居しという文句には、それがあるんだということに気付きました。
そして、古事記、日本書紀の主人公、ニニギノミコトは博多湾岸を領有し、百余国の一角を形成した。私の仮説です。紀元後57年は、これは中国史に名高い、倭奴国王、漢光武帝に遣使、金印を受くと。これが、旧事本紀の天孫本紀にいうニギハヤヒの長男、天香語山命(アマノカゴヤマノミコト)であろうかと推測しとります。次は私の全くの推測です。70年、磐余彦(イワレヒコ)、後の神武ですが、彼が誕生したのがこの頃じゃないかと思っております。
紀元後83年、これは私が、これもやっぱり神武歌謡から抜き出しました。<
忍坂(おさか)の
大室屋(おほむろや)に
人多(ひとさは)に
入り居(を)りとも
人多に 来入り居りとも みつみつし 来目(くめ)の子等が
頭椎(くぶつつ)い
石椎い持ち 撃ちてし止まむ
>という戦中には、よく歌われた歌なんですが、あの歌謡からですね、この表記の通りです。「お佐賀の大室屋」、つまり「吉野ヶ里遺跡」が、あの歌の本当の場所であろうということをやっと抜き出したわけでありますね。
そこに書いてあります、ウガヤフキアエズノミコトが、これは神武のお父さんです。佐賀平野を攻略した時の歌ではないかという推測ですね。この後は、これも歴史事実です。107年、倭国王帥升(すいしょう)、後漢の安帝(あんてい)に生口(せいこう)、これも通説と違います、「食肉用奴隷」。