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2016年11月1日

#002 「神武と魏志倭人伝」福永晋三 [55分~1時間]

だから今も、全部どこのお宮さんでも、この八幡形式になっちゃうわけです。だから、あそこの、玉垂宮の鬼夜に、お祭りに行かれた方は、17日の、あのお祭りでご存じでしょ?天狗面をかぶった人が出てきて、「面とった!鉾とった!」ってやるんですよね。あのお祭りの起源も、この鬼、いわば天狗一族、これを神功さんが、またやっつけちゃったという記録にしか他ならないわけですよね。


さぁ、これはまた神武さん関係で、私が色々まわった時に、これは神武さんが天香山を奪取した後に、もう一回南下してきて、それで嘉麻川、遠賀川の水系に入る時に越えたとされる、これも射手引神社社伝、鞍手郡誌に残されていた「帝王山」(ていおうざん)ていう、これ神武さんゆかりの山です。この時、大雨でしてね、車の中で撮るしかなかったんですがね。こういう地名が、その鞍手郡誌と共に、いっぱい残されております。


これは飯塚の南の方にあります、「馬見神社」(うまみじんじゃ)。これ、馬見物部の氏の発祥の地ですね。今、この馬見物部は大阪の方にも行っておりますね。この馬見神社の所で、駒主命という人物から、足白の馬を神武天皇はもらったということで、それで飯塚に「足白」という地名があるくらいです。だから、神武天皇の故事というのが、筑豊のあちこちに残されております。


これが、熊野神社境内の巨石です。みなさんは、神武天皇というのが、これが近畿の紀伊半島の、あの熊野大社、あの辺りの熊野と思い込んでらっしゃりますよね?ところが、筑豊に熊野があるんです。これが、さっきの古遠賀湾、海が入り込んでる時の、ちょうどその島にあたる部分、ちょうど岬にあたる部分なんですね。だから、熊野の岬に神武天皇さんは、遠賀湾を渡って上陸して、ここに立てこもる兄磯城をやっつけたというのが、どうやら筋です。


これは、熊野神社社伝ですが、ここにもですね、やっぱここに神武天皇御東征の砌(みぎ)り~という伝承が残されております。ここのお宮さんは、実はあそこにイザナギノ神、イザナミノ神って書いてありますが、実は本当の中心の神様は、あのニギハヤヒに仕えたタヂカラオノミコトです。あの天岩戸の事件で、アマテラスオオミカミが隠れ給うて、それで世の中が真っ暗になっちゃったと。


それで、何とかアマテラスさんをおびき出そうとして、祭りをやらかして、それでアマテラスさんがちょっと開いた時に、タヂカラオノミコトがググッと開いて、それでまた世の中明るくなったという神話がありますね。あのタヂカラオノミコトがここに祀られてる。もう一回行きますよ?神武さんは、この熊野に立てこもった兄磯城をやっつけたんです、磯城彦を。この後、詳しく年表で説明します。


したがって、この立岩遺跡は、神武さんが滅ぼした遺跡なんです。この有名な立岩遺跡、これは先程の威奴国の、委奴国のタヂカラオノミコトが開発した土地の遺跡だったんです。これが、熊野の宮の邑のはずなんです。神武さんにやっつけられたから、千数百年間眠ってたんです、この遺跡。その鞍手郡誌が出たのが、昭和9年。これが発見されたのが、昭和38年以降。


ほら、このタイムラグすごいでしょ?だから、神話が「先」です。神話が先です。「事実」だったんです。そして、実物の遺跡が出たんです、こうやって。だから、この中に眠る人骨は、タヂカラオノミコトの末裔なのかもしれません。兄磯城そのものではないと思います。彼は、神武に殺されるわけですから、このお墓に埋められるゆとりもないですからね。だから、兄磯城・磯城彦のもうちょっと前の人だと思います。


さぁ、これも「撃鼓宮」(げっこぐう)と言いまして、これも飯塚の近くにあります。神武さんは、最後の決戦にのぞむ時に、ここで陣太鼓を鳴らして、北に進発していったという伝承が残っております。その撃鼓の宮内に、乳の池という遺跡がありまして、これは最初、神功皇后さんを調べとった時に、ここに行き当たりました。