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2016年10月26日

#002 「神武と魏志倭人伝」福永晋三 [35分~40分]

それで彼が、また九州弁でいうと腹かいて、じゃあ、もう適当にあの三山に、畝傍山、香久山、耳成山てつけて帰ってきたんです。それでみなさん、200年ごまかされてきたんですよ?これが本当の倭三山。こういったことが見えてきたわけなんですよね。この、また畝尾山覚えておいてくださいね。これが、今日やります神武天皇の宮と、それからお墓と、陵と、それに関わってきます。一ノ岳ですね、香春の、はい。


宇治天皇さんのお話はそれくらいにしておきましょう。(*省略)さぁ、その神武さんに関して、神武さんはこの「畝傍山の東南」に橿原宮を建てられて、そこで即位した。当然、奈良県の橿原神宮、偽物です。あれコピーです、良くてコピー、悪くてイミテーションです。その東南の所にですね、実は「鶴岡八幡宮」というお宮さんがあります。これ、鎌倉の鶴岡さんより50年早いです。


昨日もお話ししましたけど、ここの宮司さん、とぼけた方でしたね。「あなたのお宮の方が、鎌倉より古いでしょうが?」って言ったら、「え、向こうの方が古いでしょう?」って。「確かめてくださいよ」って言ったら、「あ、そういえば鎌倉の鶴岡八幡宮から800年記念の写真集が来てましたね。あ、うちの方が50年早いや」なんてね。まぁ、こんなのんびりした宮司さんですね。


私がこの方に、34年前に、「いや、実はこのお宮さんの下が、ひょっとしたら神武天皇が建てられた橿原宮のはずなんです」って言ったら、もうその人は目ん玉、丸くしよったですね。そりゃあ、にわかには信じられないでしょうね。これが、冗談抜きに先程の畝尾山=香春一ノ岳の東南にあたる「高野」という字名の所にあります。日本書紀の記述通りです。で、もう一つ面白いのが、この宮司さんがこのお宮で発行されてる小冊子がありまして、その題名が「樫葉の山」です。


私がまだ、この宮司さんとお話しする前でしたから、「何でこれ、樫葉の山って題名なんですか?」、「そりゃあ、この山は昔から樫の葉が生えとるからや」と。だから、これもひょっとしたら、本当は「橿山宮」だったかも知れないですね、はい。そういう場所です。言っときます、鎌倉よりも50年早いんですよ、こちらの方が。さぁ、今度は同じ日本書紀に、神武さんは亡くなった後に、畝傍の東北陵に葬られたと書いてあります。


畝傍の東北陵。そして、香春の町で、冗談抜きにその東北に、「おほきんさん」と呼ばれる弥生時代の円墳があるんです。もうそこに、「神武陵」って書いてありますね。奈良の橿原じゃないです。私にとっては、こちらが神武陵です。「おほきん」というのは、「大王」(おほきみ)です。九州弁です。天皇さんの古代の名称です。それに、地元の人は更に「さん」という敬称をつけております。


これ、代々守ってこられたんですよ。それで、明治27年頃に宮内庁の前身のお役人がやってきて、これが万葉集に出てくる河内王の墓だっちゅうんですよ。で、調査来たんです。調査に来るっていうことで、地元の方々はここを掃除して、一日中待ちぼうけ食わされたそうです。もう、周り見てわかりますね。普通の人々のお墓が、この円墳を取り囲んで立っとるわけです。


それでやっぱり、お役人が嫌がったんです。こんな下々の連中のお墓が立ってる場所が、河内王陵であるはずがないと。それで結局、この下の所にありますね、現在の河内王陵とされている所に巨石があったんです。あ、じゃあこれが河内王陵だと、簡単に認定して帰ったという、こういう馬鹿げた話があります。地元の人はこれを「おほきんさん」の墓と言って、これを万葉集の河内王陵だという風に、地元の人は信じられよったと。


それを私がですね、ここに出かけて行って、「いや、おほきんさん…」、ずっーとその後、日本書紀調べよって、「いや、これは神武さんの本当のお墓やろう」って、ここで気が付いたわけです。このすぐ近くに、箕野(みの)さんという農民の方がいらっしゃって、その箕野さんがある時、ちょっと勘違いして、ひょっとして自分の先祖さんのお墓やなかろうか?と思って、掘ったそうです。