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2016年10月25日

#002 「神武と魏志倭人伝」福永晋三 [30分~35分]

あの山の、この稜線(りょうせん)を畝に例えたわけです。わかりますね、畑の畝ね。天香山に対して、畝の尾っぽなんです。これが後、みなさんが知っての通り、傍とか火とか変えられて、うねび山になってるわけですが。古事記のたった一か所の神話から、「あ、これが畝尾山だ」と気が付いたわけです。当然、真ん中が「耳成山」(みみなりやま)です。これも魏志倭人伝に出てくる副長官の名前です、「弥弥那利」(みみなり)


だから、古い倭国の時代に弥弥那利に当たる神が祀られてるから、耳成山なんでしょう。だから、私これ、耳梨山(みみなしやま)を改めて、あの字で耳成山と読んどるんです。これも魏志倭人伝との関係です。この山を発見したおかげで、次から次に色んな事実が見えてきましてね。それで、一番大事なことは、去年発表したのが、「真実の仁徳天皇」というお話でした。


みなさんは、仁徳天皇って言ったらもう「大鷦鷯」(おおさざき)の天皇ってみんな思ってらっしゃいますよね?それが正解です、本来は。ところが、その応神帝から仁徳帝の間は、日本書紀の間では、3年間「空位」なんですよ。莬道稚郎子(うじのわきいらつこ)と大鷦鷯が、位を譲り合ったって書いてあります。ところが、古事記の方で読みますと、その漢風諡号(かんぷうしごう)、中国風の諡名(おくりな)の仁徳の語源は、どう考えても「聖帝伝説」と呼ばれるお話が元になってるんです。


その仁徳天皇さん、本物の仁徳天皇さんがですね、天香山に登られて国見をなさったら、民のかまどから煙が上がっていないと、あぁ民が困窮しているなと、だから3年間税をお取りにならなかったていうんです。それで、3年後に再び、夏4月に、この山に登られて国見をされた。そしたら、民のかまどから煙が上がっていたと、こういう話が聖帝伝説として仁徳紀に残されておりますがね、古事記と日本書紀に。


そうした時に私は万葉集、いつも倭歌が解き明かす古代史って名乗ってますけど、そしたら万葉集の2番歌が、この時のやっぱり、仁徳天皇さんの歌、今は舒明国見歌と普通に言われるんですが、舒明じゃないんです。仁徳さんの歌なんです。<倭には群山有れど取り鎧ふ天の香具山登り立ち國見を爲れば國原は煙立ち立つ~>民のかまどです。


そして、今まで謎だった<~海原は鷗立ち立つうまし國そ~>、そして万葉集本文落ちてます、<~「豊」蜻蛉嶋倭の國は>。「豊」蜻蛉嶋倭の國でしょ?「豊の国」なんですよ、豊の国なんです。その天皇さん、実はその3年間位を譲り合ったとされる、日本書紀では太子莬道稚郎子、実はこの方が本当は即位されたんです。しかも、3年間。だから、民から税を取らなかった天皇さんは、本当は「宇治天皇」さんなんです。


この宇治天皇という名前が、播磨国風土記に「1か所」だけ出てきます。よく残ってました。それで、その本物の仁徳天皇さんは宇治天皇さんだと、この宇治天皇さんが実は大鷦鷯の天皇(すめらみこと)に、何らかの形で死に追いやられる。しかも、非業の死を遂げてったみたいなんですね。これを去年、やっと抜き出したんですよ。大変なことなんです。それで、大事なことになるのは、これがしたがってですね、倭国、倭の国の、これが「本物の倭三山」なんです。


奈良県のは、良くて「コピー」、悪くて「イミテーション」、「偽物」です。あれ、はっきり言います。奈良県の三山は、国学者本居宣長(もとおりのりなが)先生が、どうしても大和の国に、この有名な三山がなきゃいかんと、地元のお百姓さんに聞いたら、誰も天香山知らんと。