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2016年10月21日

#002 「神武と魏志倭人伝」福永晋三 [20分~25分]

大事なのは福岡県のど真ん中に「古遠賀湾」、遠賀川の流域がこういう入り江であったわけですね。もう一つ東側、平尾台の辺りの所、現在の行橋市の辺り、ここに大きな入り江がやっぱりありました。私はこの遠賀湾の方を「近つ淡海」、それから行橋の方を「遠つ淡海」と呼んでおります。これ淡い海なんです、浅い海です。こっちの行橋の方には、平尾台という文字が入っておりますあの辺りに、琵琶隈古墳というのがあります。


要するに、琵琶という所の、端っこのお墓という意味で琵琶隈古墳というのがありますね。これは今日ここだけで話しますが、滋賀県の琵琶湖、元々はここが琵琶の海だったんじゃないかと思われるんです。だから、琵琶の海もお引越しです。その古遠賀湾がありますが、卑弥呼さんの頃は、やはり卑弥呼さんの国は、この福岡県のこの図のですね、遠賀湾を中心にして、こちらの行橋の海まで、この辺りがかつての旧倭国、女王国じゃなかったかというのが私の推定であります。


これは今度は魏使のルートですね。今まで末盧國(まつろこく)というのは、やっぱり肥前の方の松浦国、松浦というのがありますね。あの松浦の方だという風に、一般の学者たちは言ってきたわけですね。ところが、壱岐島からですね、原の辻遺跡から1000里、魏使は海を渡るわけです。従来説はその松浦の所まで行っちゃうわけですから、これがですね、実は古田さんが言うように、 1000里に足りない、半分の500里にも足りない距離です。


短すぎです。だから壱岐島から南に行っちゃいけなかったんですね。なんせ倭人の国は帯方郡の東南大海の中に在りですから。だから、まず朝鮮半島を下ってくる時に、乍(たちま)ち南し、乍ち東す、つまり南に行って、東に行って、南に行って、東に行く。トータルとしてベクトル東南に行くわけです。対馬から壱岐まで、南に南に来たわけですから、もういい加減、この壱岐島で本当は東に行かなきゃいけなかったんですね。


東に行ったらですね、やっぱここにぶつかるんですよ。宗像大社のある土地です。あそこがやはり、非常に天然の綺麗な入り江、湊になっておりますね。宗像市の宗像高女という学校があった跡地、あそこがガラーッと空いちゃったんで、あそこを発掘したんですね。そしたら、原の辻遺跡と同じ船着き場の跡が出てきました。多分、魏使ここに上陸したんです。ただその宗像高女のね、ごく一部にしか船着き場出てないんですよ。


もうその奥は民家なんです。掘れないんです。やがて証明されると思いますが、あの辺りにどうも、その宗像高女の跡があるんですが、あの辺りに末盧國の中心があったようです。話は変わりまして、最初は写真集ばっかりなんですが、これ笠置山、これは日本書紀からは、ほとんど消されておりますが、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(アマテラスクニテラスヒコアマノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト)という神様が、ニニギノミコトのお兄さんに当たるんですがね、そのお兄さんが降臨したという伝説が残されている山です。


現在の宮若市と飯塚市の間、旧宮田町と飯塚市の間にあります。ニニギノミコトは「天孫降臨」の主ですね。それに対してお兄さんも実は降臨しとるわけなんです。これを私は、「天神降臨」と旧事本紀から読んでおるわけですね。そして、彼が作り上げた王国こそが、あの有名な金印の国、漢に仕えた「委奴国」だと思われます。彼の都は、先程の古遠賀湾の沿岸にありました。