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2016年10月20日

#002 「神武と魏志倭人伝」福永晋三 [15分~20分]

それに対しまして、その今までは范曄後漢書と思い込んでいましたが、250年成立の謝承後漢書は現在、完本こそありませんが、范曄も、三国志を書いた陳寿もモデルにしたとすれば、その謝承の後漢書に東鯷国がやっぱり書いてあるわけです。范曄の後漢書にも東鯷国が書いてあるということは、250年頃成立した謝承の後漢書にも入ってるはずです。


大事なのは呉の会稽(かいけい)まで、浦島太郎さんが出かけております。往復しております。この浦島太郎さんこそ、東鯷国の出身者です。つまり現在の京都府の北側、丹波の地方です。「浦嶋神社」があります、丹波、丹後半島には。これも、ちゃんとまわりました。出身地も明らかです。この人が舟に乗って、呉の会稽と往来してたんです。その東鯷国が250年の成立の謝承後漢書に載っかっている限りはですね、三国志に記載がないわけでしょ?


これで今までは、古田武彦さんたちを始めとして、通説の学者さんたちは、もちろん東鯷国無視ですが、古田さんも三国志には載っかってないから、もう東鯷国はこの時ないんだよと言っとったわけです。そんなことないです。魏志倭人伝は、イデオロギーの書物ですから、魏と呉は戦争やってたんです。この呉の国から東鯷国、近畿地方には呉の将兵一万人がやって来てます。これ後でお見せしますけど。


その内の5000人が、本国は戦争なのに丹波半島は平和そのものだったと、もうオラ国に帰るのはやだと言って、この丹波の土地で5000人の兵が脱走しちゃうんです。その彼らが脱走した直後に、あの近畿地区にいわゆる「三角縁神獣鏡」、銅鐸文化圏に三角縁神獣鏡が生まれるわけです。あそこに明らかに呉鏡て書いてありますが、実は倭呉合作鏡です。


その当時、近畿に住んでいたある権力者が、その呉から逃亡した兵、その中にいた鏡職人に、こういうデザインの鏡作ってくれと言ったんです。だから三角縁神獣鏡圏というのは、神獣鏡というのは、これは卑弥呼さんが魏から貰った鏡ではない。もう明らかです。この東鯷国、今の近畿の側から神功皇后さん出てきます。卑弥呼さんの120年後です。そういったことが、だんだん見えてきたわけなんでございますね。


それで、その倭国の証明です。これは壱岐(いき)の原(はる)の辻遺跡が発見された時に、東京でシンポジウムが行われた時の冊子の一部ですね。楽浪式土器の伝播図ということから考えて、あの矢印こそが、これが魏使の往来ルートです。この土器が、あそこで止まってますでしょ、福岡県の所で。もう、奈良の方行ってませんね。瀬戸内海越えてませんね。ただ念のため、あそこに何か変な点線書いてありますけどね。


出雲の辺りに、ちょこっとだけ出るらしいんですね。どこまで行っても、あそこで止まりです。こちら側にはないですね、瀬戸内側にはね。あそこのやっぱり、出雲止まりですよね。だから点線が書いてありますね。これ、だから倭国の土地です。もう明らかです。こう出雲出てまして、楽浪式土器という伝播の具合を考えるとですね、これがやっぱり倭国の一番中心、九州島とせいぜい山口県。


あるいは四国の西南部ですか。こちら辺りまでが倭国ということになってくるわけですね。さぁ、今度は逆にその近畿の方行きましょう。これが野洲市にある銅鐸博物館の復元された銅鐸ですね、大型銅鐸です。私これをやっぱり東鯷国の文化圏だと考えておるわけです。これまた西に戻りましょう。これは私が、Googleの中にあるFloodMapを使って、海面を7メートル上げただけの図です。卑弥呼さんの頃は、大体こういう形になっております。