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2016年10月19日

#002 「神武と魏志倭人伝」福永晋三 [10分~15分]

まず「乃」の字、これは我々がよく知りますカタカナ「ノ」、ひらがな「の」の元の字、いわゆる万葉仮名というやつです。音仮名です。だから日本に古くに伝わった音仮名は、これ最初は「乃」です。もうみなさんよくご存じの「乃」です。これ漢和辞典で引きますと、実はすぐ「ナイ」という音が同時に存在するんです。漢音の時代かどうかわかりませんが。つまり、この一つの字の中に「オ」という母音と、「アイ」という母音が交替してるわけです。


能力の「能」という字ですね。これは漢音では更に「ドウ」という発音があります。ところが、これを音符にする字「態」、これは態度の「態」、状態の「態」です。この能力の「能」という字が、音符なんですから、「能」の字自体にも、あるいは「ドウ」、「ダイ」という、やはり「オウ」という音と、「アイ」という音が、交替したという可能性があるわけです。実はこの邪馬薹国の「薹」(ダイ)という字が、中国の音韻書では同じグループの字なんです。


これみんな同じグループなんです。とすると250年に書かれた謝承の後漢書の時代、呉の国においては、この「薹」の字は「ド」と読まれた可能性が相当にあるわけです。そうすると、これは倭人がそのまま中国側に「ヤマトの国」と自分たちの国、倭国、ヤマトの国と伝えた。そのヤマトの国を例えば謝承が「邪馬薹」(ヤマダイ)と表記した、その実際の音価は「ヤマト」国だったという可能性があるわけです。


だから、通説が言ってきた「ヤマトコク」に限りなく近い「ヤマタイコク」という読み方は、決して通説の方も間違ってなかったということなんです。「邪馬壹」(ヤマイチ)の方がやっぱりおかしいんです。これがまず一つですね。そこに挙げておりますように、これは私が神功皇后について調べている時に抜き出したんですが、倭国というのは漢書地理志燕地(えんち)に出てきますね、次が後漢書倭伝です。


この後漢書というのは、これ私が最初の頃にやってましたんで、あの時はまだ范曄後漢書という感覚です。ただこうなってきますと、あの後漢書はもう、謝承後漢書という可能性が高くなってきます。そして、三国志です。魏書は東夷伝、通称の魏志倭人伝ですね。そしてこれはですね、その翰苑の中でははっきりと「三韓の南」て書いてあります。朝鮮半島の南です。もう北九州です。決まりです。


だから元々、「邪馬台国近畿説」というのが、中国の文献には全然基づいてないわけです。あれは今、日本の学者たちの、もうはっきり言ってペテンなんですよ。日本国民みんな騙しとるんです。それで三韓の南にありますから、これは当然のことながら、あの3世紀頃の青銅、私、白銅と読んでますけど、あの文化圏の内の銅矛文化圏にあたるはずなんです。


そして、この文化圏からは「後漢鏡」が出てきます。少しでも中国の歴史に詳しい方は、魏の曹操という人物は、これは後漢の宰相ですからね、元は。だから、後漢と魏というのは連続する王朝なんですよ。もう時代的にはほとんど変わりないんですよ。後漢の皇帝がまだ存在している時に、曹操は後漢の宰相に出世するわけですから、その後に子供の曹丕(そうひ)が、禅譲(ぜんじょう)を受けて、魏という王朝が誕生するわけです。


だから当然、魏が受け継いだのは、後漢の王朝なんです。鏡を作る工房があったとしたら、それは後漢の王朝なんです。それじゃあ、みなさんがよくご存じの卑弥呼が魏から貰った鏡=後漢鏡なんでしょ?後漢式鏡なんでしょ?この後漢式鏡が出るのは、兵庫県の加古川から西なんです。これ私が全国まわって調べぬきました。しかも、全部壊されて出てきます、ほとんどが。まずこれが一つですね。卑弥呼、もちろん3世紀。238年に、魏に使いを送った女王です。これ全部、倭国側ですよね。