三国志を書いた陳寿は、この後漢書を見て、あの魏志倭人伝書いとるんです。そういうことになってくるんですね。そして、この謝承の書いた後漢書いうのは、実は唐の時代にもまだ存在してたんです。ということは5世紀の范曄も謝承の後漢書を見て、いわゆる新後漢書、私風に言いますと、新後漢書を書いているわけです。一番大事なことは、三国志自体にも同じ5世紀の、范曄と同時代の裴松之(はいしょうし)という人物が、三国志に注をつけておりますね。
その注の中に、謝承後漢書に曰はく~という文句があります。その三国志の裴松之注の中に、この謝承の後漢書が使われています。そして唐の時代に李賢(りけん)という皇族の一人がブレーンを集めまして、この范曄後漢書にまた唐の時代に注をつけます。これが有名な范曄後漢書李賢注と呼ばれる書物です。その同じ頃にできた張楚金の翰苑と同じ頃にできた、もう一つの有名な歴史書、正史が「隋書」(ずいしょ)です。
あの隋書「俀國伝」(たいこくでん)、阿毎多利思北孤(アマノタリシヒコ)、あるいは(タリシホコ)ですか、この人物が出てくる俀國伝の載っているのが実は隋書という書物です。この隋書も同じ頃に作られておりまして、この隋書経籍志という、当時の唐の朝廷にあった歴史書の名前がずらーっと書いてあるんです。その中にこの謝承の後漢書が出てきます。
そうしますと、我々が今まで見てきた三国志、それから三国志裴松之注、それから范曄後漢書、范曄後漢書李賢注、そしてこの翰苑と、これらを書いた人たちはみんな一様にその呉の孫権の時代の、250年成立の謝承後漢書をみんな見てるわけなんです。この唐の時代に成立した翰苑、この写しが日本の9世紀の平安朝に藤原の何某という者が、中国の翰苑を写したんです。
その写した中に雍公叡の注もあるわけですね。その中の倭人伝に出てくる後漢書というのが、先程述べた3種類の後漢書の内の名前のない後漢書なんです。その活字本でない写本の中に、実は邪馬臺(やまだい)とかですね、邦臺(ほうだい)とか、あるいは張楚金の本文ですと、馬臺(まだい)に鎮す~とかですね、この「臺」の字が全部使ってあるんです。
だから古田さんの仮説は、もう大間違いです。中国の書誌学の方からいけば、明らかに三国時代から、陳寿の時代から、唐の隋書経籍志ができるまで、あるいは翰苑ができるまで、一貫して邪馬「臺」国だった。これが冷静な見方です。だから、私も今回それ以来はもうずっと邪馬臺国という言葉を使っております。だから逆に言えば邪馬壹国(やまいちこく)こそなかったわけですね。
そうしました時にですね、今度はその邪馬臺国の「臺」(だい)というのは、どういう発音をしたか。その謝承の後漢書が250年成立であれば、250年頃の中国語では「臺」の字はどう発音をしたのか?という、そういう大問題にぶち当たることになったわけですね。