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2016年10月17日

#002 「神武と魏志倭人伝」福永晋三 [冒頭~5分]



一応、題名は今日、「神武と卑弥呼と神功 邪馬臺國(やまたいこく)年表」と書いてございます。この邪馬臺國につきまして、近頃私の方で古田史学の古田武彦さんという人が、かつて「邪馬台国はなかった」という本を出されて、実は中国は北宋ですね、唐の後の王朝の頃に出来た版本に、すべて「邪馬壹国」(やまいちこく)と書いてあるから、陳寿(ちんじゅ)が書いた原書「三国志」も実は邪馬「壹」国ではなかったか?という、そういう話で始まっていて、私もしばらくの間それを受け継いでいたんですが、この度ですね、この邪馬臺國(やまだいこく)という表記、これを古田さんは一方的に范曄(はんよう)の後漢書、5世紀成立なんですね。


それに対して、三国志魏志倭人伝の方は、これは3世紀末の成立なんですよね。それで、三国志の方が早い。それから、范曄後漢書の方が5世紀後に出来ているという、そういう所から、後漢書の版本、同じ時代の宋の時代の版本には「邪馬臺國」と書いてあって、それで陳寿の三国志の版本は「邪馬壹国」て書いてあるから、版本が全て「邪馬壹国」である限り、三国志の方が早く出来ているんだから、3世紀の陳寿が書いた頃は、「邪馬壹国」という名前だったと。


そういういうことで「邪馬台国はなかった」という古田武彦さんの第一書が、世に問われたわけであります。ところが、私が実際に中国文学出身ですので、もう一回版本に当たってみたんですね。そうしますと、大変な事実がわかりまして、実は太宰府天満宮に世界にたった1冊しかない、中国本国でも失われてしまった「翰苑」(かんえん)という書物がございます。


この「翰苑」という書物を最初から最後まで全部読んでみますとですね、驚いたことに、そこに張楚金(ちょうそきん)という人物が四六駢儷文(しろくべんれいぶん)で「東夷伝」、つまりこの倭国も含んでですね、高句麗伝とか韓伝とか、色んな東夷伝が、この太宰府天満宮に残されておりました、翰苑の 東夷伝が。それに更に張楚金の後50年ぐらいして、雍公叡(ようこうえい)という人物が注をつけました。


その注の中に、実は後漢書とか三国志とかいうのが、ちゃんと資料として、注としてついているわけなんですね。その内、後漢書について調べ直していきますと、これは高句麗伝の割注からわかったんですが、実はその翰苑の所に用いられた雍公叡という人物の注の中には、3種類の後漢書があるんです。一つが名前のない後漢書、ただの後漢書、そして我々が今まで知らされてきた范曄後漢書、これがちゃんと范曄の名前入りで出てきます。范曄後漢書。


そしてもう一つが、わけのわからない魏の牧魏(もくぎ)の後漢書というのもあります。合計3種類あるんですよ。今言った2番目が范曄後漢書で、これが我々が今まで教え込まれてきた「三国志」の後にできた後漢書です。じゃあ、その一番最初に出てくる何の名前もついてない後漢書は、誰が書いたのか?これは、唐の三国志、陳寿が書いた魏志倭人伝、あの中にはっきり書いてありますね。


これは孫権に仕えた、孫権の第一婦人なんですが、謝夫人(しゃふじん)という人物がいます。感謝の「謝」という字を書きます。その謝夫人の弟に謝承(しゃしょう)という人物がいます。承というのは承諾の承という字を書きます。この謝承の後漢書というのがですね、推測ですが、呉の孫権の統治下ですので、およそ250年、つまり陳寿の三国志の「前」にできた後漢書として、存在するわけです。驚いたことには、その翰苑に採られている後漢書が、実はその謝承の250年頃成立の後漢書なんです。