だから魏志倭人伝、魏志なんですよ、本当に。それで残りのですね、蜀書と呉書、蜀の国と呉の国は正史、正しい歴史書としては扱ってないんですね、古文書もね。これ面白い所ですよ。だから、本当に魏志ていう言い方はあるんです。これは隋書の中に経籍志というのがありましてね、その中に明らかに『三国志』という文字がなくて「魏志」としか書いてありませんね。これも面白い所です。
だから、隋・唐は魏の王朝を受け継いだ王朝という意識があったみたいですね。自分たちのと意識としては。他、よろしいでしょうか?じゃあ、また後でまとめてもまたやりますので、じゃあ休憩いたしましょう。
<休憩>
はい、それでは再開ということで後半いよいよ『吉山旧記』も登場になりまして、この久留米の土地で神功さんは何をされたか?ということの方に話を移してまいろうかと思います。えっと、後半も最初はですね、私が神功さんを追いかけてですね、どこにその出発地を求めたか?という所から始めたいと思います。ここに書いてございますように、氣比神宮の対岸に常宮(つねのみや)というのがありましてね、ここに神功皇后の伝承が伝わっております。
それから、息長水依(みずより)比売という神功さんの、あれ、これお母さんでしたっけ?もう少し前でしたっけ?この姫様が舞鶴市行永(ゆきなが)の大森神社、通称彌加宜(みかげ)神社に祀ってあります。父にあたるですから、これは、あれ?お母さんですかね?やっぱり?父にあたる天之御影(みかげ)神は彌伽宜神社に祀ってあり、その直近に先程見ていただいた野洲町の銅鐸博物館があります。
だから、これとあわせていくと神功さんは銅鐸文化圏の出身であるということがわかりますし、同時にそれは先程の230年の三国志の呉書が示す通り、呉の孫権の黄竜2年の事件にあたります。あの5000の兵が逃げ出したこの丹後半島のこの辺りですね。この辺りに5000人の呉の兵が逃げ出しまして、その直後あたりに三角縁神獣鏡が登場するという考古学的にピッタリ内容が合う時代ですね。
だから、地域は明らかに神功さんはこっちの土地の出身です。みなさん、昨日の新聞ご覧になりました?この滋賀県から何か出ましたよね?はい、上御殿遺跡から銅剣と、銅剣の鋳型が出て、しかもその銅剣はオルドス地方ですか?とにかく北アジアの銅剣とそっくりだと。それがしかも朝鮮半島を経ないで日本海を直に渡って来て、それで滋賀の地にあるということがわかりましたよね。じゃあ、この国やっぱり別の文化圏じゃないですか?
だからあれは私、楽しみにしてます。あぁ、良いタイミングで出たなと(笑)。そう思っとりますね。これも私が本当に長年かけて調べだした物でして、まぁとにかく父親と母親らしき人が、この近畿の土地に滋賀県から京都府の北部にかけて存在しますのでね、神社も伝わっておりますので、まずこっちの出身であろうということはわかるわけです。ついでですから、これが銅鐸文化圏で、東鯷国であり、ここに三角縁神獣鏡が生まれた。
こちらの銅矛文化圏、西側がこれが当然、倭国。3世紀の時の女王国であろうということも、これも容易に想像つきますよね?考古学の世界でも、鏡専門の人たちはですね、中国の魏と呉が争っている時代、中国の北・南の鏡は日本の西・東に対応するというのが今、定説になりつつあります。つまり、呉の国が銅鐸圏から出ます。呉の鏡が。魏の鏡、後漢鏡はこの西日本、私が言いました加古川の西に出ます。
もう見事に一致するわけですよね?もうこれを以てしても邪馬台国は動かないわけですよ、『翰苑』という書物とあわせても。考古学上の遺物からいっても動かないわけです。九州中心です、北部九州の。先程お話ししましたように、卑弥呼さんの国の時の神武の出身地、これが日向国と思われますよね。それで手研耳命さんが殺されて、それで乱が起きたと。